平戸とは
平戸とは、九州の本土における最西端に位置する長崎県の町。長崎市からは、北西の方角に位置します。
平戸市は、長崎最西端の平戸島全体から平戸大橋を渡った先の九州本土側の一部にまたがり、さらに生月島、度島、的山大島までと、とても広大。その理由は、2005年に周辺の田平町、生月町、大島村と合併し、平戸島の北西に位置する生月島、北に位置する的山大島(あづちおおしま)、そして平戸大橋を渡った先の本土側の田平町までが平戸市になったからです。その名残として、かつて田平町だった九州本土側に「たびら平戸口駅」(松浦鉄道)があります。
平戸の中心地は、平戸島の平戸市街地(平戸地区)になります。
平戸への交通手段は
平戸を旅の目的地とする際に、あらかじめ旅の目的や平戸以外に巡りたい場所があるか、旅の予定日数と一緒に考えるとよいでしょう。
のんびり旅、鉄道の旅、平戸市街地のみの観光 が目的
👉電車移動がおすすめ 松浦鉄道にて、たびら平戸口駅まで移動。そこから路線バスまたはタクシーで平戸大橋を渡り、平戸地区(市街地)へ。体力と時間に余裕がある方は、歩いて平戸大橋を渡るというのもひとつ。
隠れキリシタン関連の観光 が目的
👉レンタカー、自家用車での移動がおすすめ キリシタン関連の場所は、平戸島、生月島のさまざまな場所に点在しているので、車移動が必須。運転ができない場合は、公共バスを利用する手段もありますが、バスの本数も少なく、時間を要するのと、日数や滞在時間によっては多くのキリシタン関連観光地には行けないので、あらかじめバスなどの時間を調べたり、観光箇所を厳選することが必要になります。タクシー利用ですと、バス利用よりも効率的にまわることができます。
目的にあった団体旅行(パッケージツアー)に参加するのも、ひとつの手段。
効率的に目的にあった観光地を巡ることができ、ツアーによっては現地ガイドさんの説明付きで、観光地をより詳細に見学していくことができます。
平戸の歴史
平戸は、大陸と近い立地上、古くから中国や韓国と交易がおこなわれていました。
平安末期には松浦党が平戸地域をおさめ、鎌倉時代には倭寇(海賊)、室町・南北朝時代には貿易船を守る水軍(松浦党)として幕府に認められました。
この松浦党は、内部で48つ(松浦四十八党)に分かれており、元寇の戦いにも参戦。内部では、中国との貿易に励む派、倭寇(海賊)として高麗に襲撃をかける派など複数の派閥にわかれていました。時代を経て松浦党内部の中で平戸松浦氏が戦国大名として成長し、関ヶ原の戦いの後に平戸藩・外様大名となりました。
平戸とポルトガル
戦国時代のさなかである1550年(天文19年)、ポルトガル船が平戸に来航。長崎県内において、平戸と豊後(現在の大分県中・南部)が開港しました。ポルトガルの船が平戸を訪れる回数は、年に1、2回程度。そして、ポルトガルにつづき、スペイン・オランダ・イギリスが日本と交易をはじめ、南蛮貿易が活発になり、“西の都”と呼ばれるほどの国際都市に繁栄した平戸には、京都・堺の豪商までもが訪れてきました。
南蛮貿易というと長崎が有名ですが、長崎よりも早い時代に南蛮貿易をしてしていたのは平戸だったのです。
長崎港がポルトガル船に対して開かれたのは、1571年(元亀2年)と平戸港が開かれてから約20年もあとのこと。
1561年(永禄4年)、平戸でポルトガル船員と現地の人との間で殺傷事件(宮ノ前事件)が発生したことから、ポルトガル船寄港地を平戸港から横瀬浦港(1562年/永禄5年)→長崎港(1571年/元亀2年)へと移転していきました。
平戸とオランダ
1609年(慶長14年)オランダ東インド会社の船が平戸に入港し、江戸幕府の許可を得て商館が設置されました。1641年(寛永18年)に商館が長崎の出島へ移転するまでの33年間、貿易の拡大に伴い、商館を拡張していきましたが、出島に移転する前に禁教令によって壊されました。
長崎市の出島は、1616年(元和2年)に鎖国体制の一環として、ポルトガル商人の住居とここで商売を限定させるために出来た人工島です。しかし島原の乱の後、幕府はポルトガルとの貿易に伴う布教活動を警戒し、ポルトガル人は出島から追放され、代わりに島原の乱で幕府に武器を提供したのがオランダだったことで、1641年(寛永18年)平戸のオランダ商館が出島に移りました。
平戸とイギリス
1600年(慶長5年)、豊後に漂着したオランダ船に乗っていたウイリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステン(耶楊子=ヤヨース。彼の屋敷があった東京駅東側は八重洲の地名で残っています)は、徳川家康に気に入られ雇われました。1603年(慶長8年)に江戸幕府が開かれるとウイリアム・アダムスは徳川家康のもとで外交顧問や通訳、造船に携わりました。
1613年(慶長18年)、イギリス東インド会社の船クローブ号が国王の書簡を携え平戸に入港した際に、イギリス船(*注)との間に入ったのが、ウイリアム・アダムスでした。その仲介あって、同年平戸にイギリス商館(*注)ができました。
しかしイギリス商館はオランダやポルトガル、中国等との交易競争で対日貿易に伸び悩み、インドとの交易に重点を置く方針に変更、1623年平戸イギリス商館は閉鎖されました。
*当時は、イングランド・スコットランド同君連合。
ウイリアム・アダムスは、イギリス商館長のもとで働くことになり、平戸に移り住み、1620年(元和6年)に平戸で亡くなりました。
平戸観光のおすすめ 5選
教会と寺の見える場所
ポルトガル船によってもたらされたキリスト教と、古来から日本で信仰され続けていた仏教。それぞれの宗教を象徴する建物が、ひとつのフレームに収まる場所。この風景は、平戸そのものの歴史をあらわしているといえるでしょう。
また、ここは『男はつらいよ』の第20作で寅さんとマドンナが歩いています。
この場所へ辿り着くには、坂と階段移動が必要になります。平戸ザビエル教会裏にある正宗禅寺から階段と坂道を下っていくと辿り着きます。逆に平戸港交流広場(フェリー、バス発着所、観光案内所)や松浦資料館から行くと、坂道と階段を上る必要があります。
平戸ザビエル教会
1931年(昭和6年)、大天使ミカエルに捧げた現在の鉄筋コンクリート造りの教会が完成。1971年献堂40年記念にザビエル像を建てたことで、現在の教会名になりました。
平戸オランダ商館(復元)
本来のオランダ商館は、禁教令の最中に壊されなくなりました。1980年代から商館の発掘作業がおこなわれ、文献資料なども見つかり、それらをもとに1639年当時の倉庫を復元。現在、内部では倉庫の建築技術をみることができ、地図や航海用具、貿易商品などが展示。また復元されたオランダ商館長の執務室もあります。
平戸城と松浦資料博物館
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定時に、当時の領主松浦鎮信(法印)が平戸の領地を認められました。そのため、徳川家康が天下をおさめるようになると、豊臣と縁があった松浦家を疑う家康。その疑いをはらすべく、1613年(慶長18年)には完成したばかりの居城(日の岳城:現在の平戸城同所)を松浦鎮信(法印)自ら放火し焼き払います。
その後、第5代目将軍徳川綱吉の代になってから状況が変化し、平戸藩主は幕府内で厚遇されるようになりました。
現在、平戸市街地から見える平戸城(当時は亀岡城)は、1718年(享保3年)に松浦家の城として築城された天守閣を1962年(昭和37年)に復元したものです。
1613年(慶長18年)に、松浦鎮信(法印)が居城(日の岳城:現在の平戸城同所)を焼き払ったあとに居館、藩庁とした場所には、現在「松浦資料博物館」があります。博物館の建物は、1893年(明治26年)の松浦家私邸を利用しています。松浦家に関する所蔵品はもちろんのこと、かつて南蛮貿易が活発だった平戸ならではの海外から手に入れた品や貿易等に関する資料など、平戸の歴史を物語る展示は非常に見応えがあります。
王直の像
1542年(室町時代/天文11年←ポルトガル人が種子島に漂着し鉄砲伝来の前年)、戦国大名・松浦隆信は、中国・明時代の国際密貿易商人で海賊の頭目であった王直を平戸に住まわせ、中国との貿易の仲立ちをさせました。王直は、日本の平戸・五島に拠点を置いていました。
平戸にポルトガル船が入ったのも、ヨーロッパ船との交易をすでにしていた王直の手引きにより、平戸に入港したといわれています。平戸を南蛮貿易の拠点にしたきっかけを作ったとしても非常に重要な人物です。
番外編:台湾の英雄・鄭成功、平戸発祥の禅宗と茶
鄭成功とは
鄭成功は、中国・明時代の貿易商かつ武将だった父親と日本人の母親との間に1624年、平戸で生まれました。7歳のときに父親によばれ、明へと渡ります。
しかし、鄭成功が20歳になった1644年に明は滅亡。新たに北京を首都に遷した清と、滅亡後も残った明の皇族と臣下たち(南明)による抵抗時に、鄭成功は明(南朝)の武将として戦い、その最中の1661年、オランダに統治されていた台湾を開放。鄭成功は、台南に拠点を置き、清との戦いを続けるも1662年に急死しますが、鄭成功の子孫が22年間台南を統治しました。
鄭成功が主人公とした明と清の戦いは、日本においては近松門左衛門による「国姓爺合戦」として戯曲化されています。鄭成功は、中国と台湾において英雄として語り継がれています。
平戸発祥の日本初めて物語
日本における緑茶発祥の地が、平戸だったことはご存じですか?
1191年(健久2年)、宋から帰国した臨済宗の祖・栄西禅師は、平戸島に冨春庵(現在は千光寺)で茶の栽培を行い、禅の教えとともにお茶の栽培法から茶法を日本に広めました。
平戸は「日本禅宗発祥の地」であり「日本喫茶発祥の地」でもあるのです。