五島列島とは
五島列島は、長崎県西部に位置する列島で、北東側から中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島の5つの大きな島およびその周辺の小さな島々から成り立っています。人口は約7万人で、島々には多くのカトリック教会が点在し、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として2018年に世界遺産登録がなされました。
また昭和時代には、捕鯨で栄えた歴史もあり、近年漁獲高は減少しているものの、現在も漁業が重要な産業であり、海産物が名物です。
世界遺産
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリスト教が禁じられている時代に、長崎と天草地方において、日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら進行を続けた潜伏キリシタンの信仰継続に関わる伝統の証となる遺産群でございます。これらは、潜伏キリシタンの伝統の始まりからその形成、維持、拡大の段階を経て、新たな信仰の局面の到来によって伝統が変容し、終わりを迎えるまで、潜伏キリシタンの伝統の歴史を語る上で必要不可欠な12の構成資産からなります。大航海時代のアジアにおいてキリスト教宣教地の東端にあたる日本列島の中で、最も集中的に宣教が行われた長崎と天草地方 の半島や離島に点在しています。
遡ること江戸時代末期、 五島には信仰を守るために、外海からキリシタン約3,000人がやってきた頃より始まります。久賀島の牢屋では42人も殉教するなど、五島各地でさまざまな迫害、弾圧にあいながらも耐え抜き、命がけで信仰を守り抜いてきました。 長い禁教時代、命がけで信仰を守ったという事実と歴史に価値があるのです。
また、信徒たちが弾圧と迫害を避けて生活した集落とそこに建つ教会は、周りの自然環境と相まって、五島独特の景観を形成しております。 また、外国人神父の指導のもと、日本人の棟梁によって建てられた教会は、当時の教会建築の様子を知るうえでも歴史的に貴重な価値を持っています。
鉄川興助
その五島の教会建築に数多く携わったのが鉄川与助です。鉄川興助は、明治12年(西暦1877) 1月13日に現在の新上五島町丸尾郷で大工の家系に生まれました。15歳で尋常小学校高等科を卒業後、大工の修行を始め、明治39年(1906) 27歳で家業を継ぎ、鉄川組を組織しました。戦後になって鉄川工務店と組織を改め、息子に家業を譲りましたが、晩年は横浜で過ごし昭和51年 (1976) 97歳で人生を全うしました。
鉄川が22歳の明治34年頃、旧北魚目村の曽根教会の建設 が行なわれましたが、 工事を指導していたフランス人のペリュー神父に招かれ工事に参加しました。そこで教会堂建築で大切なリブヴォールト天井の技術を学びました。
リブヴォールト天井とは、ゴシック建築でよく用いられた天井の様式のことです。アーチを平行に押し出した形状を特徴とする天井様式や建築構造のことで、 日本語では穹窿(きゅうりゅう)と呼ばれています。
この工事に参加したことで、後の建築家人生が決定付けられました。明治時代が終わる頃にはフランス人のドロ神父に出会い、 建築全般について指導を受けたそうです。 大正4年にはドロ神父設計の長崎大司教館を建設しました。明治41年には塚本靖の紹介で建築学会に入会すると、東京に通い勉強をしました。鉄川氏は尋常小学校高等科出身で、高度な教育を受けていませんが、外国人神父の 指導や自身の研鑽によって、 大工から建築家といわれるほどの仕事をするまでになったといえます。
業績・評価
鉄川氏はその生涯に50を越える教会関係の建物に関わったといわれています。その中で、自身が設計した教会堂は30にもなります。このことから 鉄川氏は「教会建築の父」などと呼ばれることも多く、教会建築の専門家のように認識されています。事実、教会堂を盛んに建築していた時期、長崎では「教会は鉄川じゃないとでけん(できない)」と言われるほどでした。しかし、後に長崎神学校や魚目小学校などを鉄筋コンクリートで建設したように、教会堂以外の建築にも積極的に携わり、建築家といわれるほどの仕事をしています。 新上五島町では元海寺山門や得雄寺本堂のように仏教関連の建築にも関わっています。鉄川氏自身は仏教徒で、元海寺は鉄川家の菩提寺にあたり、得雄寺も関連があります。
鉄川氏が建設した建物はその優秀さや価値が認められ、現在では5つの教会建築 が国の重要文化財に指定されました。 長崎県や新上五島町の有形文化財に指定された建物も多く、国や県、町の宝として未来に残されます。
鉄川建築の世界遺産教会
鉄川氏が手がけた教会堂のうち、4棟が重要文化財に指定されています。
田平天主堂
大正7(1918)年完成【国指定重要文化財】
大正4年から3年の歳月をかけて、信者達の手によって建設されたロマネスク様式の荘厳な赤レンガづくりの教会です。瀬戸山天主堂とも呼ばれており、色鮮やかなステンドグラスは、絵画を思わせるほどの美しさです。十字架は高く輝き、アンジェラスの鐘は彼方まで響きます。教会の傍らには歴代の信者が眠る墓地があり、辺り一帯の風景は日本を遠く離れた異国の地を感じます。レンガ積みの技術や細部の意匠まで見ごたえがあります。
江上天主堂
大正7(1918)年完成【国指定重要文化財】
白い壁、窓がブルーの外観からは愛らしい印象を受けます。湿気を避けるため、高床式で、柱には手書きの木目模様、窓には信者が描いた花模様の透明ガラスを採用しているなど、美しさと完成度の高さから鉄川与助の代表作などといわれております。
頭ヶ島天主堂
大正8(1919)年完成【国指定重要文化財】
珍しい石造で重厚な外観を持ち、華やいだ内部が特徴的な頭ヶ島天主堂は、外観と内装のギャップでいうと五島の教会一と言っても過言ではないほどです。近くの島から切り出した石を、信者らが船で運び組み立てました。内部は船底のような折上天井で、随所にツバキをモチーフにした花柄文様があしらわれ「花の御堂」の愛称で親しまれています。
旧野首教会
明治41(1908)年完成【県指定有形文化財】
小高い丘の上に残るレンガ建築の小さな教会で、鉄川氏初のレンガ造教会です。
この教会周辺は「野首集落」という潜伏キリシタンが移り住んだと言われる集落で、野崎島にかつてあった3つの集落のうち、舟森集落と共に信仰が深かった地域とされています。旧野首教会は、集落に住む17世帯の信者たちが貧しい暮らしを続け、力を合わせて費用を捻出し、数年をかけて建てた本格的なレンガづくりの教会です。禁教の時代に厳しい弾圧を受けながらも信仰を守り抜き、長年の苦難を耐え抜き信仰の自由を手に入れた人々の、抑圧からの解放と喜びという崇高な精神性の象徴と言えるでしょう。低いリブ・ヴォールト天井や木製の柱台など、日本と西洋の技術を融合しながら試行錯誤した跡が見てとれます。
いかがでしたでしょうか。五島列島には、鉄川氏と守り続けた信者の方が残した美しくも力強い教会が数多く残っています。写真では伝わりきらない、歴史を是非訪れて感じてみてはいかがでしょうか。