イシク・クル湖とは
天山山脈とイシク・クル湖
中央アジアのキルギスは、国土の9割が標高1,500m以上に位置する高原の国。砂漠はなく、どこまでも美しい緑が広がります。キルギスから中国西域にかけては、一際険しい峰々が約2,500kmにも渡って連なります。天山山脈です。最高峰のポベダ山(7,439m)を頂点とする4,000~7,000m級の山脈は、万年雪を頂き、数々の氷河を内包しています。暖かい時期になると、これらの氷雪は豊かな雪解け水へと姿を変え、緑を潤し、さらにはイシク・クル湖などの高山湖を生み出してきました。
イシク・クル湖の大きさは、面積が琵琶湖の約9倍(6,236㎢)、最大深度は世界7位(668m)、体積は世界11位(1,738㎦)。透明度は、その時々の水の状況によって不定ですが、世界2位と称されるほどの美しさを誇ります(20m以上)。
歴史は古く、一般的な湖の寿命が数千~1万年といわれる中、20万年の時を超えて存在し続けています。世界で20か所ほどしか確認されていない貴重な古代湖の一つです。その長い歴史の中で独自の進化を遂げた固有種の魚も見られ、辺り一帯はラムサール条約湿地に指定されています。
玄奘三蔵とイシク・クル湖
言わずと知れた唐の仏僧・玄奘三蔵も、この地を訪れています。仏の教えを探究したい思いから、唐の都・長安(現西安)を旅立ち、インドを目指したのは629年のこと。仏教の東漸してきた道を遡るかのように歩き、修学に努め、再び長安の地に戻るまでの期間は17年間に及んだといいます。その記録が残された『大唐西域記』や、西安の大慈恩寺に伝わる『三蔵法師伝』を紐解くと、イシク・クル湖は「大清池」あるいは「熱海(ねっかい)」の名で登場しています。
そもそも、一行が天山山脈を越え、イシク・クル湖へと辿り着くまでの道のりは大変厳しいものでした。峠は夏であっても凍結し、道は険しく、暴風は砂や石の雨を降らすがごとく吹きすさび、極寒の中で多数の同行者や牛馬を失ったといいます。
このような艱難辛苦の天山を抜け、高原に降り立ち、やがて眼前に広がる美しい湖面を目にしたそのとき、一行は一体何を思ったことでしょうか。
『大唐西域記』には、「色は青黒味を帯び、~中略~大きな波がはてしなく、荒い波は沫だっている。竜も魚もともに雑居し、不思議なことがおりおりおこる」とあります(水谷真成訳,1999)。この「竜」が何を表しているかは分かっていませんが、いずれにしても当時から不思議な湖として言い伝えられていたのでしょう。
騎馬遊牧民とイシク・クル湖
イシク・クル湖を取り巻く高原は、遊牧民たちが活動し、騎馬の技術を以て駆け巡り、勃興を繰り返してきた舞台でもありました。
紀元前には、世界最古の騎馬遊牧民とされるスキタイの一派・サカ(イラン系)や、烏孫(トゥルク系)が暮らしており、イシク・クル湖の湖底には、沈んでしまった集落が今もなお取り残されています。
紀元後にも、西突厥(トゥルク系)、ウイグル(トゥルク系)、契丹(モンゴル系)と覇者は次々移り変わりました。現在のキルギス人(トゥルク系)がシベリアから南下し、この地に住み始めたのは16世紀の頃とされます。
イシク・クル湖への行き方、アクセス
空の玄関口である首都ビシュケクまでは、直行便がなく、アジア内都市乗り継ぎ便で向かうのが一般的です。
空港から、イシク・クル湖観光の拠点となるチョルポン・アタ(北岸)までは、陸路で約4時間の移動となります。道は比較的整備されています。
※航空機の運行スケジュールは、各航空会社のホームページにてご確認ください。
イシク・クル湖周辺の見どころ
イシク・クル湖クルーズ
小さなボートを貸し切り、クルーズに出かけます。
イシク・クル湖の北に聳えるはクンゲイ・アラトー(“陽の当たる山”)、南に控えるはテルスケイ・アラトー(“陽の当たらない山”)で、いずれも天山の支脈です。天候に恵まれれば、湖上からは、360度どちらを見渡しても、美しい湖面と山々のコントラストを楽しむことができます。
チョルポン・アタ(北岸)
チョルポン・アタは、イシク・クル湖観光の拠点となるリゾート地。白い砂浜と青い湖面の広がる美しいビーチは、いわゆる中央アジアのイメージとはかけ離れたものではないでしょうか。
リゾートといっても大規模な開発が行われているわけではなく、のどかな雰囲気が残っている点も魅力です。
イシク・クル湖を遠望できる小高い斜面には、900以上もの岩絵が残る岩絵野外博物館があります。紀元前7世紀ごろ、湖畔を駆け巡っていたサカ(イラン系)の狩猟生活の様子が描かれていると考えられます。
カラコル近郊(東岸)
カラコルは、ロシア人たちによって築かれ、のちにドゥンガン人(中国系ムスリムのこと)が逃れ着いた、多民族の街。街のシンボルは木造のロシア正教会とドゥンガンモスクです。
天山山脈への登山拠点としてもにぎわいますが、登山をせずとも、ミニバンで訪れることのできる名所があります。テルスケイ・アラトーの山中、標高2,200m程の高地に広がるドリーナ・スベトフ(“花の盆地”)です。名前の通り、夏になると花咲く盆地へと変貌し、高山植物で彩られます。
そこから山裾にかけては、アラトーから流れ出る雪解け水に削られた、赤砂岩の渓谷が広がります。奇岩群ジェティ・オグズは“七頭の雄牛”を意味し、荒々しい7つの峰が連なります。
トクマク近郊(西部)、アク・ベシム遺跡【世界遺産】
アク・ベシムは、6~7世紀に栄えた西突厥(トゥルク系)の本拠地、スイアーブが置かれた地だと推定されています。イシク・クル湖畔を辿った玄奘三蔵一行も、道中で「素葉城(スイアーブ)」を訪ね、王の歓待を受けたと記録しています。
当時、東ローマ帝国らとの交易で潤っていた王族の暮らしはそれは華やかなものだったとされますが、残念ながら今は見る影もありません。というのも、玄奘三蔵による訪問の前後、一派は内乱に陥り、唐に攻め入られています。しばらくは唐の西方進出の拠点「砕葉鎮」としても使われましたが、次第に繁栄は廃れ、都市機能は後述のバラサグンへと移ってゆきました。
バラサグン遺跡とブラナの塔【世界遺産】
バラサグンは、10~12世紀、ウイグルなどトゥルク系遊牧民の連合軍により築かれた中央アジア初のイスラーム王朝、カラ・ハン朝の東の都が置かれた地です。これを併合した契丹(モンゴル系)によるカラ・キタイでも、引き続き都となりました。
しかしながら、今の遺跡から当時の繁栄ぶりを窺うことは難しいかもしれません。後にこの地はモンゴル帝国の支配下に入り、荒廃の一途を辿ることになってしまったのです。
今も残る数少ない遺構、ブラナの塔は、イスラーム時代のミナレットだとも、陸の灯台だったとも考えられています。
イシク・クル湖周辺で見学できること
鷹狩り
伝統的な狩猟方法である鷹狩りは、中央アジアまたはモンゴル地域の遊牧民の間で始まったとされ、その歴史は数千年前に遡ります。鷹狩りの技が広く受け継がれている地域は世界的に見ても少なく、キルギスでも鷹匠さんの人数は減少傾向にありますが、地元の人々の尊敬を集める稀代の存在であり続けています。
鷹狩りといっても、小さな方からハヤブサ、タカ、ワシといった様々な猛禽類が用いられますが、キルギスでは一際大きなイヌワシを使うのが伝統です。体重が5kgにもなるワシを華麗に操り、獲物を狩る様子は圧巻です。
騎馬ゲーム
騎馬遊牧民の間では、その騎馬術を磨く訓練を兼ね、多様な騎馬ゲームが楽しまれてきました。
国技になっているウラック・タルトゥシュは、“ヤギの引っ張り合い”という意味。ヤギの遺骸を処理したものをボールに見立て、疾走する馬上で奪い合い、ゴールへと運ぶ競技です。ルールはシンプルですが、時に馬同士が激しくぶつかり合う中、重量30kgにもなるというヤギを抱えながら馬を操るのは、並大抵のことではありません。伝統の技と迫力ある試合を堪能させてもらいましょう。ちなみに、やわらかくなったヤギの肉は試合後に頂くそうですよ。
この競技はコクボル(“蒼き狼” )の呼び名でも知られ、古くはヤギでなく、オオカミを用いていました。遊牧民にとっての狼は、家畜を襲う天敵でありながら、畏敬の念の対象でもあり、狼狩りは特別な意味を持つ行事だったのだといいます。