マサダとは
マサダは、第一次ユダヤ戦争(66-73年)において古代ローマと最後まで戦ったユダヤ人達が籠城した死海近くの丘の上に築かれた城塞で、最終的に玉砕(集団自決)した悲劇の地としても知られています。この敗北の結果、ユダヤ人たちは国を失い、1948年のイスラエル建国まで約1900年に渡って流浪の民として過ごすことになります。
死海近く、地表から切り立って頂上部が平たい丘の上に軍事施設が築かれたのは、紀元前2世紀末頃。その後ヘロデ大王の時代に宮殿が建てられ、軍事的機能も備えた離宮として用いられるようになります。66年にユダヤ戦争が勃発すると、エルサレムを逃れたユダヤ強硬派約1000人が天然の要害であるマサダに立て籠もります。地の利を活かして古代ローマ帝国の大軍を相手に奮闘しますが、ローマが谷を埋めて頂上部に上る土砂のスロープを完成させるに至り、ユダヤ人たちは抗戦を諦め、集団自決の道を選びました。
ローマは徹底的にマサダを破壊し、その存在は忘れ去られましたが、19世紀に入って再発見されました。現代でもイスラエル軍の入隊式はこの地で行われ、「マサダの悲劇を繰り返さない」という宣誓が行われています。
マサダへの行き方、アクセス
死海の西岸側にそびえるマサダへは、その死海西部にあるリゾートエンボケックから車で約20分で到着します。また、エルサレムやテルアビブからも車で約2時間で到着しますので、日帰りでの見学も可能です。
マサダの見学、観光
ロープウェイに乗車
マサダの麓は死海に近い為、海抜がマイナス400mになり、海抜450mの頂上部へは、蛇の道と呼ばれる古代の道を850m分上る必要があり、健脚者向けです。一方現在ではロープウェイが頂上駅まで通じているので、一般見学者はこちらの利用をお勧めします。
頂上部
マサダの頂上部は平たくなっているので、軍事的施設を構築するのにおあつらえ向きでした。最長500m以上の幅があり、周囲を城壁で囲って内部に宮殿や住居、シナゴーグ、貯水槽などが造成されました。
西の宮殿
ヘロデ大王が築いた最初の宮殿で居住区や謁見の間、中庭など様々な機能を持つ宮殿でした。戦争で大半が失われてしまいましたが、基部や壁が往時の姿を今日に伝えています。
北の宮殿
西の宮殿の後に作られた北端の宮殿。当時としては斬新にデザインされており、頂上部の宮殿の下にもテラスと建物が断崖沿いに建てられています。
王の間や浴場など保存状態も比較的良い施設が残っていて、見応えがあります。
死海の眺望
切り立った丘の上のマサダは遠くまで見通す事ができました。東側にある死海も遠く対岸のヨルダン側まで見渡す事ができます。
ローマ人のスロープ
ローマがマサダを陥落させる為に土砂を重ねて頂上部に至る人工スロープを完成させ、その結果籠城しているユダヤ人が抗戦を諦めました。そのスロープは現存しており、同じく跡が残るローマの陣地から攻め込むための道をマサダ頂上部から見下ろす事が出来ます。
貯水槽
乾燥地域での長い籠城に不可欠であった貯水槽。少ない降雨を漏らす事なく貯め、長期間に渡る籠城戦を戦う事を可能にしました。