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使徒聖パウロ、その生涯、異邦人への伝道と殉教までを辿る

2023 4/26
目次

使徒の聖パウロとは、その伝道の重要性

『アテネで布教する使徒パウロ』ラファエロ作タペストリーの下絵

紀元後5年、トルコ南部のタルススに生まれたユダヤ人のパウロ。家はローマ市民権を持つ名門の家でした(当時ユダヤ人でローマ市民権を持っている者は限られ、キリストや12使徒も持っていなかったと考えられています。)
成人するとイスラエルの地で広まり始めた新興のキリスト教を異端視し、迫害します。しかしダマスカス(シリア)近くで回心(詳細は後述)し、以後キリスト教の熱心な布教者となります。他の使徒と違ってローマ市民権を持っていたパウロは移動や布教しやすい環境にあり、小アジア(トルコ)からヨーロッパに渡り、キリスト教をイスラエルの地のマイナーな新興宗教から国際的でメジャーな宗教になるまでに広めた最大の立役者です。

行く先々で信者や教会を育成し、幅広い土地にキリスト教を根付かせましたが、それによってユダヤ教徒やローマ帝国から目を付けられるようになり、紀元後67年頃に殉教しました。12使徒の一人ではないものの、12使徒のペトロと並ぶ教会最大の功労者として現在も篤い信仰を集めており、パウロ(ポール)の名を冠した教会も世界中で多数存在しています。

使徒聖パウロ、生地と「パウロの回心」でキリスト教に改宗するまで

タルスス(トルコ)

トルコ南部にあるパウロの故郷タルスス。パウロは紀元後5年にここでローマ市民権(特権)を持つ敬虔なユダヤ教徒の一家に生まれました。タルススには、パウロが実際に使っていたという言い伝えがある井戸が今も残されています。

ダマスカス(シリア)と「目から鱗」の由来となった『パウロの回心』

カラヴァッジョ『パウロの回心』(ローマ/サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂)

成人してキリスト教徒の迫害や取り締まりを積極的に行っていたパウロ。ある時迫害に向かってダマスカス近郊の丘に差し掛かった時に天上から強い光が差し、パウロは落馬して目が見えなくなります。そしてキリストの声が「サウロ(パウロのユダヤ名)よサウロ、何故私を迫害するのか。ダマスカスに入れば、己の進む道は示される」と響き渡ります。言葉に従ってダマスカスに入ったパウロは、キリストの命を受けた聖アナニアスによって家に連れて行かれて失明を直され、キリスト教徒に改宗しました。尚、聖アナニアスの家はその後聖地として教会に転用され、現在もダマスカス旧市街の一角(地下)に残っています。

ダマスカスの聖アナニアス教会(撮影:ユーラシア旅行社)

この改宗に至るまでの出来事を『パウロの回心』と呼びます。目が見えなくなったパウロが改宗して何かが取れたように目が見えるようになった事で、この出来事から「目から鱗(が取れる)」ということわざが誕生しました。

使徒聖パウロ、伝道の旅

洗礼を受けてキリスト教徒に改宗したパウロは、布教活動を始めます。他の使徒と違ってローマ市民権を持っていたパウロは移動も演説の自由もあり、自らも「異邦人(ユダヤ人でない人)へ福音を伝える事」に主眼を置いて活動します。その布教活動は数多くの都市を巡る、正に壮大な伝道の旅でした。

パフォス(キプロス)

キプロス島西部、美の神アフロディテ生誕の地としても知られるパフォスでパウロは布教活動します。その際、ユダヤ教徒に柱に縛り付けられて鞭打ちされたという伝説が残っており、今もそのすり減った柱を見ることができます。元々ユダヤ教徒でありながらキリスト教徒に改宗したパウロは、終生ユダヤ教徒からの攻撃に悩まされる事になります。

エフェソス(トルコ)

古代ローマ帝国時代にはアジア州の州都で、パウロが布教の拠点として3年近くを過ごした町です。聖母マリアの家が遺跡の外れにも位置しており、キリスト教にとっても重要な都市でした。パウロの確実な足跡は残っていませんが、町の中心通りやケルスス図書館界隈にはよく出没した事でしょう。新約聖書の「エフェソへの手紙」はこの都市の信徒に宛てられたパウロの手紙です。

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フィリピ(ギリシャ)

アレクサンドロス大王の父フィリッポスが築いたフィリピは、ローマ時代に入ってもギリシャ北部の重要都市でした。パウロはこの地で布教に成功し、ヨーロッパ側で最初のキリスト教共同体がこの街に誕生しました。この街の信徒の信仰心は篤く、パウロが獄中で書いた「フィリピへの手紙」も新約聖書の中で今日まで息づいています。

コリントス(ギリシャ)

コリントス遺跡のパウロの説教壇(撮影:ユーラシア旅行社)

ギリシャのペロポネソス半島入口の重要都市コリントス。パウロはこの街に滞在し、当初はユダヤ人にキリスト教布教を試みましたが、不発に終わりました。その後異邦人に布教対象を変え、多くの入信者を獲得する事に成功します。しかしユダヤ人から訴えられたパウロは遺跡中心部に残る説教壇で裁判にかけられる事になりましたが、幸い事なきを得る事ができました。パウロが後に著した「コリントへの手紙」もまた新約聖書の中で重要な位置を占めています。

ロードス島(ギリシャ)

ロードス島の聖パウロ湾(撮影:ユーラシア旅行社)

パウロは、陸上だけではなく、海上でも様々な島を巡って布教活動を行いました。ローマ時代には学問の島として知られていたロードス島も訪れています。パウロが上陸した場所は今も聖パウロ湾という名前が残っており、景勝地としても知られています。

カエサリア(イスラエル)

カエサリアの総督宮殿跡(撮影:ユーラシア旅行社)

各地を布教後に船でイスラエルに戻ってきたパウロはローマ帝国に捕われ、約2年に渡ってカエサリアの総督宮殿に監禁されていました。総督宮殿の跡は今も残っており、ローマに送られる前のパウロの足跡に触れる事ができます。

ローマ(イタリア)

フォロ・ロマーノ(赤矢印の箇所がマメルティヌスの牢獄跡)(撮影:ユーラシア旅行社)

捕らえらてローマに送られたパウロは、約2年監禁されてました。パウロはペトロと一緒にマメルティヌスの牢獄に投獄され、その場所は古代ローマの中心フォロ・ロマーノの中心部に今も残っています。
本人は獄中であったものの、刑吏たちの改宗にも成功し、新約聖書の礎となる多くの手紙も著し、キリスト教の布教活動は精力的に続けていました。最期はネロ帝のキリスト教虐殺のさなかに処刑されたと言われています。

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