クノッソス宮殿とは
紀元前2000年頃、エーゲ海南部のクレタ島を中心に栄えたミノア文明の中心地に建てられたのがクノッソスの大宮殿です。当時のミノア文明とクノッソスはエーゲ海の島々を始め、ギリシャ本土にも影響力を及ぼし、ヨーロッパで最も古い都市と形容される事もあります。
紀元前1700年前頃に最初の宮殿は倒壊してしまいますが、間もなく新しい宮殿が建設されました。複数階にまたがる1300以上とも言われる数多くの部屋が点在し、迷宮のような佇まいが、ミノタウロスとラビリンス(迷宮)伝説の由来となったと考えられています。
紀元前1400年前後にミノア文明が衰退した後もクレタを代表する都市として一定の力を保持していましたが、紀元後の古代ローマの時代に入ると、打ち捨てられて行きました。1900年になってアーサー・エヴァンスによって発掘されました。大宮殿の跡が現代に甦り、謎に包まれていたミノア文明の歴史を今日に伝える貴重な史跡として多くの旅人が訪れ続けています。
ミノタウロスとラビリンス伝説とは
ミノタウロスの誕生
ギリシャ神話に由来します。兄弟たちと権力を争っていたクノッソスのミノス王は勝つために海の神ポセイドンに白い牡牛を与えて欲しいと依頼し、ポセイドンはその白い牡牛を生贄に捧げる事を条件にミノスの願いを叶えます。しかし、ミノス王はその白い牡牛のあまりの美しさに魅せられ、ポセイドンとの約束を違えて別の牛を犠牲にします。その行為はポセイドンの知るところとなり、ミノス王の后が白い牡牛に恋する呪いをかけられ、牡牛と后の子として生まれたのが半人半牛の怪物ミノタウロスです。
暴れるミノタウロスを抑えておくためにミノス王は名工ダイダロスに無数に部屋があって迷い込むと出られない巨大なラビリンス(迷宮)を作らせませした。
テセウスの登場とミノタウロス退治
ミノス王はアテネ(アテナイ)に対して戦争で勝利し、アテネに対してミノタウロスに7年ごとに7人の若い男と7人の処女を生贄として捧げる事を命じました。アテネは止むを得ず従っていましたが、三度目の生贄供出の時にアテネ王アイゲウスの息子テセウスが状況を打開する為にあえて生贄に立候補します。
クレタに到着したテセウスは、ミノス王の娘アリアドネにすぐさま恋に落ちます。誰も抜け出すことは出来ないとされていたダイダロスの迷宮を抜け出す方法として赤い糸玉、そしてミノタウロスを倒すための剣をひそかに渡します。
勇躍迷宮に入ったテセウスは、糸を垂らしながら進み、ミノタウロスが現れると、見事に剣で倒します。垂らした糸を辿って無事脱出し、アリアドネと共に船でクレタ島を脱出しました。
クノッソス宮殿への行き方、アクセス
クレタ島の中心イラクリオンの南方約5km地点に位置するクノッソス宮殿は、イラクリオンからバスやツアーでアクセスする事が出来ます。所要時間は20分前後です。
クノッソス宮殿のみどころ、おすすめ観光
迷宮のような複合構造
迷宮(ラビリンス)伝説が生まれるきっかけとなったクノッソス宮殿の複合的な建築構造。残念ながらその全容は残っていませんが、複雑に交錯したり、広がったりしてる建築の基部を見ているだけでもクノッソス宮殿がまるで迷宮のような建物であった事は容易に察する事が出来ます。
王の間
クノッソス宮殿中心部に位置する「王の間」は、中央に石の玉座が置かれ、周囲にはベンチ、壁にはギリシャ神話の聖獣グリフィンが玉座に向かうように描かれています。実際にここを王が利用していたかは定かではありませんが、その位置と装飾や構造から宮殿の中の最も重要な部屋の一つであった事は間違いないと考えられています。
女王の間
宮殿内の一角にひっそりと佇む「女王の間」。その壁上部から鮮やかなイルカの壁画が発見されました。現在オリジナルはイラクリオンの考古学博物館で展示されていますが、この部屋では優美なミノア文明らしい装飾芸術に触れる事が出来ます。
ミノア文明の壁画群
紀元前2000年頃から数百年続いたミノア文明は、その優美な芸術性でも知られています。女王の間のイルカ以外にも古代の壁画が複数発見されています。オリジナルは基本的にイラクリオンの考古学博物館で展示されていますが、クノッソス宮殿で元々発見された場所付近でレプリカも飾られていますので、往時の宮殿の風景を思い浮かべながら巡る事が出来ます。