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古代ローマ帝国皇帝ハドリアヌス、五賢帝の旅人皇帝の足跡を辿る

2022 4/02
目次

ハドリアヌス帝とは

ハドリアヌスの青銅像(c)Carole-Raddato(CC-BY-SA-2.0)

後に古代ローマ帝国の最大版図を築く事になるトラヤヌス帝の従弟の子として紀元後76年に生まれたハドリアヌスは、帝国内の出世街道を順調に上り、軍事面でも内政面でもめきめきと頭角を現し、117年に古代ローマ帝国の第14代皇帝に即位します。
皇帝に着いた後はトラヤヌス帝の極端な拡張路線を軟化させ、維持可能な安定化路線を目指しました。政敵も多かった為に強圧的行動を取る事もあったようですが、広大な帝国の安定化、パクスロマーナ”ローマの平和”の確立、そして数々の公共事業や名建築等功績も多く残しました。最初に髭を生やした皇帝でもあり、男色家としても知られています。
また、帝国各地を自ら巡って陣頭に立ち続けた古代有数の旅人でもあります。(次項参照)

ハドリアヌスの出身地とされるイタリカ(スペイン)(撮影:ユーラシア旅行社)

五賢帝の一人にして、古代ローマ有数の旅人であったハドリアヌス

ハドリアヌスが旅した道の概略図(作成:ユーラシア旅行社)

ハドリアヌスは膨れ上がったローマ帝国を維持可能な状態にする為に、自ら広大な帝国各地を巡って陣頭に立ち続けました。北はローマ人にとっては極寒の地であったブリタニア属州(イギリス)で世界遺産にも登録された「ハドリアヌスの城壁」を築き、西はトラヤヌスや自身の家の出身地でもあるヒスパニア属州(スペイン)、南は帝国の重要な穀倉地帯でもあったアフリカ属州(チュニジア・アルジェリア)や愛人を当地で失ったエジプト属州、そして東は大国パルティアと対峙していた前線ユダヤ属州やシリア属州まで、正に縦横無尽に巡りました。

人気漫画「テルマエロマエ」に登場するハドリアヌス

原作が人気を博し、映画かもされたヤマザキマリさん作「テルマエ・ロマエ」。その重要な登場人物の一人がハドリアヌスで多少脚色誇張はあるものの、史実を元にキャラクター化されています。

ハドリアヌスの名建築

軍事面・内政面のいずれでも才能を発揮したハドリアヌスですが、生まれた時代が異なればミケランジェロと腕を競う事が出来たかもしれません。実はハドリアヌスは建築にも造詣が深く、自身も色々設計したと言われています。その設計はかのミケランジェロ自身も驚かせ、そして今日までローマの顔の一つとして立ち続けています。

パンテオン(ローマ)

パンテオンのファサード(撮影:ユーラシア旅行社)

アグリッパが建てた初代パンテオンが消失した後、紀元後126年頃にハドリアヌスが再建し、今日までその姿を留めている古代ローマ唯一完全に近い形で残っている建築と言われています。壮麗な柱廊、巨大なドーム等この建築はフィレンツェの大聖堂を築くブルネレスキも参考にし、フィレンツェからローマに来てこの建物を見たミケランジェロも「これは天使の設計」と感服させられた程です。直径と床から天井への高さ43mが等しい球体がすっぽり収まる設計、そして天窓、二千年崩れぬ強固な工事等正に古代ローマを代表する驚異の建築です。

パンテオンのドームと天窓(撮影:ユーラシア旅行社)

サンタンジェロ城(ローマ)

サンタンジェロ橋から望むサンタンジェロ城(撮影:ユーラシア旅行社)

ローマ中心部からテヴェレ川を挟んで対岸に建つサンタンジェロ城。ダン・ブラウンの小説「天使と悪魔」でも知られるローマを代表するモニュメントの一つであるこのお城も元を辿れば、実は139年にハドリアヌスが自身の墓として建設した廟。実際にハドリアヌス自身もここに葬られ、その後カラカラまでの数人の皇帝もハドリアヌスに続いた。城上部に上るための不思議ならせん状のスロープはハドリアヌス建設時のオリジナルです。

城内のらせん状のスロープ(撮影:ユーラシア旅行社)

ヴィラ・アドリアーナ(ハドリアヌスの別荘/イタリア)

カノープス(撮影:ユーラシア旅行社)

ローマの東方約25kmに位置するティヴォリ。ハドリアヌスはこの地に別荘を築き、自身が隅々まで巡察した帝国各地の建築を配した。エジプトの港湾都市カノープス、敬愛していたギリシャからアテネ、その他浴場、水中劇場、図書館等が並び、さならがら古代ローマのミニ都市の様相を呈しています。1999年にこの別荘単独で世界遺産登録されました。

大浴場(撮影:ユーラシア旅行社)

ハドリアヌスゆかりの史跡

ハドリアヌスの長城(城壁)(英国)

ハドリアヌスの長城(撮影:ユーラシア旅行社)

万里の長城と同じように、北部からの異民族侵入を阻む為に建設されたのが、欧州版万里の長城、ハドリアヌスの長城(城壁)です。ブリテン島北部を横断する約117kmにも及ぶ長さを誇る長城はブリタニア属州の安定化に寄与しました。長城は後に形成されるイングランドとスコットランドの堺の近くに位置し、英国史にも影響を与えたと言われます。ティヴォリの別荘同様、単独で世界遺産登録されているハドリアヌスの偉業の一つです。

ハドリアヌスの長城の城門跡(撮影:ユーラシア旅行社)

ハドリアヌスの図書館、記念門(アテネ)

ハドリアヌスの図書館跡(撮影:ユーラシア旅行社)

ギリシャ文化をこよなく愛したハドリアヌスはギリシャにも数度足を運び、その中心都市であったアテネを文化都市として繁栄させる事を夢見、いくつかの公共事業を手がけました。特に文化振興の核として建設した図書館は帝国内でも有数の大きさを誇り、今日のアテネ中心部にもその遺構が残されています。ハドリアヌス記念門は、ゼウスの神域への入り口に位置し、アテネ市民がギリシャびいきのハドリアヌスに贈ったものとされています。

ハドリアヌスの記念門(撮影:ユーラシア旅行社)

ハドリアヌス神殿(エフェソス・トルコ)

エフェソス遺跡(トルコ)のハドリアヌス神殿(撮影:ユーラシア旅行社)

小アジア(現在のトルコ)を代表する古代ローマ時代の都市遺跡エフェソス。そこにハドリアヌスの名前が冠されたハドリアヌス神殿が建っています。エフェソスを数回訪れ、街を厚遇したハドリアヌスへの感謝の印として築かれた神殿です。

ハドリアヌスの凱旋門、浴場等(ヨルダン、リビア)

ジェラシュ遺跡(ヨルダン)のハドリアヌス記念門(撮影:ユーラシア旅行社)

古代ローマ帝国の最東方地域に位置するジェラシュ遺跡(ヨルダン)では、ハドリアヌスの来訪を記念して壮大な凱旋門が築かれ、今も遺跡入り口に高くそびえています。また、レプティスマグナ遺跡(リビア)では、広大なハドリアヌスの浴場があります。この浴場は恐らく建設時に帝国を治めていた皇帝の名を冠したもので、ハドリアヌス自身の建設や記念ではないと考えられています。

レプティス・マグナ遺跡(リビア)のハドリアヌス浴場(撮影:ユーラシア旅行社)

ハドリアヌスの愛人アンティノウス

デルフィ博物館(ギリシャ)のアンティノウス像(撮影:ユーラシア旅行社)

ハドリアヌスは前帝トラヤヌスの姉の孫サビーナと結婚していたものの、一般的にこの結婚は不幸な結婚とみなされている。当時のローマ帝国上流階級の間では、古代ギリシャの時代以来続く男色も許容されていました。ハドリアヌスもギリシャ出身の美青年アンティノウスを深く愛し、自身の巡察にも随行させましたた。しかしエジプト属州でナイルのクルーズ中に謎の死亡を遂げ、ハドリアヌスは悲嘆にくれ、アンティノウスの神格化を決定します。皇帝が愛人の死後に神格化させたというある種身勝手な決定の割には、アンティノウス信仰は帝国内で幅広く伝搬し、各地でその彫像や遺構が発見されています。

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