MENU

シルクロード都市、栄光のパルミラ遺跡(シリア)

2024 4/02
目次

パルミラとは

破壊前のパルミラ遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

シリア砂漠のオアシスであるパルミラ(タドモル)は、紀元前より人々が定住し、古代ローマ帝国の登場によって東西交易が活発化すると、ユーフラテス川とダマスカス、地中海の間の中継都市として莫大な富を手にしました。特に南方で同じく中継貿易に従事していたナバテア王国がトラヤヌス帝によって滅ぼされると、パルミラはシルクロードを代表する巨大都市として不動の地位を固めます。

あわせて読みたい
ナバテア人とナバテア王国、謎の交易民族のルーツと痕跡を辿る
ナバテア人とナバテア王国、謎の交易民族のルーツと痕跡を辿る【ナバテア人とは】ペトラの入口シクにある隊商が引くラクダ像(撮影:ユーラシア旅行社)アラビア半島北部を中心に遊牧を営んでいたアラブ系の民族ナバテア人。紀元前4...

パルミラの最盛期は紀元後3世紀、オダエナトゥスの時代。東のパルティア、西のローマに挟まれる中で巧みに貿易を展開して富を蓄え、ローマ側に寄った立ち位置で軍事的にも成功し、ローマから広範な自治権を持った自由都市として認められ、周囲にも影響を及ぼして行きます。オダエナトゥスが暗殺された後は、妻のゼノビアが女王として君臨し、ローマと袂を分かち、レバント地方(現在のシリア東部、レバノン等)からエジプトやトルコ東部にまで侵攻し、支配下に収めます。ゼノビアは聡明で美しく、『クレオパトラの再来』とも呼ばれて多くの人に従われましたが、アウレリアヌス帝のもとでローマが反撃に転じると、戦いに敗れ、273年、巨大都市パルミラは敗北します。(ゼノビアは捕虜となった後、ローマ近郊で静かに余生を送ったと言われています)

パルミラの陥落を見守るゼノビア(ヘルベルト・シュマルツ作)

ビザンチン時代以降のパルミラはかつて程でないにせよ、それ以降も現代まで、約二千年に渡る歴史を紡いできました。奈良までいたるシルクロードの有力都市であった事から、奈良県立橿原考古学研究所を始め、数多くの大学や研究機関がパルミラで学術的調査や発掘、修復作業に携わり、日本とも非常に縁の深い遺跡でした。次項で触れる遺跡や博物館の破壊から一日も早く立ち直り、『砂漠の女王』とも呼ばれた優美な町並みにまた出会える事を信じて、破壊前の遺跡をご紹介します。

2015年夏、ISによるパルミラ遺跡の破壊

米CBS放送によるパルミラの被害報告

2015年夏、現代においても砂漠の要衝であるパルミラを制圧したISは、パルミラ遺跡の破壊を始めました。周囲の墳墓に始まり、遺跡の入口であったハドリアヌス記念門、バール・シャミン神殿、ベル神殿等が次々に爆破され、瓦礫と化しました。

被害は古代の遺構だけに留まりませんでした。多くの人命も失われました。その中でもハーリド・アル=アスアド氏の死は世界にも大きな衝撃を与えました。パルミラで生まれ、考古学の世界に身を投じて50年以上にも渡ってパルミラ遺跡や博物館、発掘などを統括してきた『ミスター・パルミラ』と呼ばれたアスアド氏はISの接近を受けて貴重な博物館の所蔵品や資料を避難させてました。そしてついにパルミラがISの手に落ちた後にはそれらの所蔵品や資料の避難先について厳しく追及されながらも一切それをISに伝えず、処刑されました。
氏が命を懸けて守ったものをパルミラに戻し、人々にパルミラの歴史と栄光を伝える日も待ち遠しい限りです。

生前のハーリド・アル=アスアド氏

パルミラへの行き方、アクセス

パルミラへは、シリアの首都ダマスカスから陸路で砂漠を通り抜け、約3.5-4時間の移動で到着します。

パルミラ遺跡のポイント

ベル神殿

破壊前のベル神殿(撮影:ユーラシア旅行社)

パルミラの中心部、約200m四方にも及ぶ城壁に囲まれた広大敷地内の中心部に建つのがベル神殿です。ベルはレバント地方で広く信仰されていた主神で、大きな宗教行事や儀式がこの地で行われていました。爆破された建物の一つで破壊後は神殿の壁の一部のみが残っていると言われています。

ハドリアヌス記念門

破壊前のハドリアヌス記念門(撮影:ユーラシア旅行社)

ハドリアヌス帝の訪問を記念して建設された門。列柱が並ぶパルミラの中心通りの入口に位置しており、当時の威光を今日に伝えています。この門も残念ながら爆破されましたが、修復作業も開始されており、破壊された遺構の中では比較的早い段階での復活が期待されています。

列柱道路

破壊前の列柱道路(撮影:ユーラシア旅行社)

ベル神殿からハドリアヌス記念門を経て町の中心部を通り抜けていた約1kmの道。左右にはコリント様式の巨大な柱が並び、古代よりパルミラを訪れた多くの人にその町の威光を伝えていた事でしょう。柱の半ばには台座があり、神々や偉人の像が立っていたと考えられています。劇場近くには、オダエナトゥスやゼノビアの名が刻まれた柱も残っています。

劇場

破壊前のローマ式劇場(撮影:ユーラシア旅行社)

パルミラ中心部に建つローマ式劇場。現代においてもパルミラ・フェスティバルの会場として使われており、市民の憩いの場としての機能を持っておりました。残念ながら、この劇場の舞台での処刑動画がISによって投稿されるという悲しい出来事がありましたが、破壊は部分的である為、この施設も比較的早く修復される事が見込まれています。

四面門

破壊前の四面門(撮影:ユーラシア旅行社)

パルミラの四面門は、東西に走る列柱道路と南北の通りが交錯する交差点に建てられた記念的建築です。他のローマ遺跡ではあまり見られない様式でパルミラの一つのシンボルでした。2015年の最初の破壊は免れたものの、2017年初頭の奇襲で16本(4×4本)の柱の内ごく一部を残して破壊されました。

バール・シャミン神殿

破壊前のバール・シャミン神殿(撮影:ユーラシア旅行社)

遺跡の北部に位置するバール・シャミン神殿は、同名の天空の神に捧げられた神殿で、パルミラでも最も古い遺構の一つでした。後に教会に転用された為に保存状態もよく、当時の姿を留めていました。ベル神殿同様にISによって真っ先に破壊された施設の一つであり、保存状態が良かった分修復箇所も多く、元の姿に戻るには時間を要する見込みです。

パルミラの塔墓・地下墓

破壊前のエラベルの塔墓(撮影:ユーラシア旅行社)

パルミラの西部には、死者の谷と呼ばれるネクロポリスがあり、そこに数多くの塔墓が建っていました。また、都市周辺には多くの地下墓も点在していました。これらの墓の多くがパルミラ最盛期の富裕層の墓で、内部には当時の特徴的な彫刻を見る事が出来ました。残念ながら多くの塔墓も爆破され、がれきと化しました。地下墓は被害状況がまだ不透明な所もありますが、なるべく多くが無事である事を祈るばかりです。

パルミラの地下墓(撮影:ユーラシア旅行社)

パルミラは西アジアにおける一大研究地点で日本の研究所や大学の多くが発掘していました。特に複数の地下墓発掘プロジェクトが日本に属する研究機関によって推し進められ、日本語の案内板も多くかけられていました。

地下墓の日本語案内(撮影:ユーラシア旅行社)

パルミラ博物館

パルミラのライオン像(撮影:ユーラシア旅行社)

メソポタミアの影響が感じられるライオン像は、パルミラ遺跡の神殿から出土し、長らくパルミラ博物館の入口に飾られていました。こちらもISによって破壊されたものの、残された部分や破片が集められてダマスカスに運ばれ、修復されてダマスカスの国立博物館で現在は展示されています。

博物館そのものは大きな被害(冒頭のCBSの動画にも内部の様子が登場します)を受けたため、再開館の目途が立っておりません。ハーリド・アル=アスアド氏が命をかけて守った貴重な展示品が氏が生涯を注いだ博物館に戻れる日が待たれます。

内戦直前に撮影されたシリアの映像

破壊前のパルミラの姿(3:24地点から)を始め、首都ダマスカス、十字軍の名城クラック・デ・シュバリエ、ボスラの古代劇場を2011年2月下旬に撮影した映像です。(内戦はその数週間後に勃発)

目次
閉じる