ナバテア人とは
アラビア半島北部を中心に遊牧を営んでいたアラブ系の民族ナバテア人。紀元前4世紀頃に北上し、現ヨルダンにあるペトラに居を構えると、周囲の交易路を行き交う隊商たちの警護や関税徴収に生業を移しました。その結果大きな富がナバテア人達に入るようになり、岩に守られた首都ペトラを中心にナバテア王国が生まれます。その後約200年に渡り大きな繁栄を手にしますが、交易路がペトラから遠ざかり、さらに紀元後106年にローマ帝国のトラヤヌス帝がペトラを属州化し、ナバテア王国とその繁栄に終止符が打たれます。そしてナバテア人達は歴史の中に消えゆき、その名が再び表舞台に登場する事はありませんでした。
ナバテア人達は口語はアラビア語系、文語はアラム語系の言語を利用していましたが、当時から歴史的記述や文献が多くなく、その姿は今でも謎に包まれています。
ナバテア王国の位置
ナバテア人達はアラビア半島北部に広がるネフド砂漠(NAFUD DESERT)の西側から徐々に北方へ勢力を広げ、ペトラを首都に王国が成立する頃には、アラビア半島とレバント地方を結ぶ交易路(上部地図で紺色の線)が多数交錯する重要地帯に勢力圏を確立しました。
しかし紀元後1世紀に入ってから交易は紅海海上ルート(上部地図の緑の線)とシルクロード (上部地図の赤の線) に徐々に移行し、交通の減少に伴ってナバテア王国の力も低下していきました。
ナバテア人、王国ゆかりの地
ペトラ(ヨルダン)
世界遺産にも登録されているナバテア人達の隠された都市ペトラは、映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」にも登場した事で今では知らない人はあまりいないでしょう。有史以前から人が暮らした痕跡が残るペトラは、紀元前3世紀から2世紀頃にかけてペトラを首都に定めて都市として急速に発展し、最盛期には人口2万人を擁したと言われています。ナバテア人達は灌漑・治水技術にも優れており、今日も遺跡の入口シク沿いにその痕跡を確認する事ができます。エジプトのピラミッド同様に、ペトラの岩を掘り出した巨大な建築物の目的もはっきりとはしていませんが、恐らく王や有力者たちのお墓や廟として建てられたという説が有力です。他にも神殿や祠等ナバテア時代の遺構もかなり残され、謎の民ナバテア人の足跡を辿る貴重な遺跡です。
リトル・ペトラ(ヨルダン)
ペトラの約8km北方の渓谷にナバテア人達が築いたもう一つのペトラ、通称「リトル・ペトラ」があります。その名の通りペトラ本体より規模は遥かに小さく、街の訪問者達の為の宿場町として造営されたとも言われています。2010年にはナバテアの遺構の一つにフレスコが発見され、ナバテアの美術様式や当時の生活を知る貴重な手がかりになりました。
マダイン・サーレ(サウジアラビア)
ペトラから通商路の南方、アラビア半島北部に佇むのがナバテア人達の第二の都マダイン・サーレです。南方から運ばれる香料やスパイスの中継地として、また隊商たちを保護する為の前線基地として紀元後1世紀頃に築かれました。ペトラ同様にナバテア様式の墳墓群が印象的です。岩壁にあるペトラのものと違ってこちらは独立した岩に築かれているケースも多く、見応えがあります。ナバテア人が得意とした灌漑技術によって砂漠の中でも都市として機能し続ける事ができました。その考古学的価値が認められ、サウジアラビアで初めての世界遺産にも登録されました。
ボスラ(シリア)
シリアの最南端部、ヨルダンとの国境に近い火山岩が創り出した大地に位置するのがボスラです。アラビア半島から小アジア(トルコ)を結ぶ南北通商路の最大都市ダマスカスの一つ手前の宿場町のような位置づけでしょうか。街の建設には特有の黒い火山岩が用いられているので、遺跡の印象も他都市とは異なります。ナバテア王国の末期、ボスラを北の首都に定め、活発化し始める東西を結ぶシルクロードへの楔として利用したと推測されています。ナバテア没落後ローマ帝国もこの都市を重要視して多くの工事が行われた為ナバテアの名残りは「ナバテア門」以外にあまり残っていないですが、世界的に知られる劇場を始め、一見の価値はある場所です。
アンマンのヨルダン博物館
2014年にヨルダンの首都アンマンで開館したヨルダン博物館。一角にナバテア関連の展示を集めたナバテアの部屋があります。上の写真は、博物館の目玉で入口近くに展示されている、死海東部の遺跡の神殿で発見されたナバテア人の豊穣の女神レリーフです。下はナバテアの部屋にある神殿破風装飾とモザイク床の展示で、ヘレニズムの強い影響が感じられます。