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旧満鉄(南満州鉄道)沿線上の5つの都市を巡る(中国東北地方)

2021 11/08
目次

旧満鉄(南満州鉄道)とは、その歴史

「あじあ号」をけん引した蒸気機関車「パシナ」(撮影:2012年ユーラシア旅行社)
※現在は別所で保管中。

満鉄とは「南満州鉄道」の略称です。日清戦争(1894年〜1895年)の後、日本は下関条約にて清国より遼東半島を割譲されましたが、その直後のフランス、ドイツ、ロシアによる三国干渉により清国に返還することとなりました。その見返りとして、1896年にロシアは清国より東清鉄道の敷設権を獲得し、さらに1898年に遼東半島先端部(旅順・大連)の租借権を獲得しました。東清鉄道は満州地方北西部の満洲里から東部の綏芬河(すいふんが)までが本線です。この路線によって、シベリア鉄道にてイルクーツクから東の終点ウラジオストックまで行く場合、ハバロフスクを経由するロシア領内のみを通過するルートよりも、チタで分岐して清国領内を通り、ウスリースクで再びシベリア鉄道と合流するルートのほうがはるかに短くて済むわけです。
さらに、満洲里と綏芬河のほぼ中間に位置するハルビン(哈爾浜)から南下して大連、旅順へ結ぶ南満州支線もあり、これはロシアがウラジオストックに変わる不凍港を求めたために小さな一漁村に過ぎなかった大連に港湾を建設し、その西に位置する旅順には日本との戦いに備え要塞を築きました。

大連中山広場の旧ヤマトホテル(撮影:ユーラシア旅行社)

その後、日露戦争(1904年~1905年)が勃発し、日本の勝利後に日露間で結ばれたポーツマス条約にて、遼東半島先端部の租借権及び東清鉄道南満州支線のうち長春~旅順間を日本が引き継ぐことになりました。そして1906年に設立した半官半民の南満州鉄道は、長春~旅順間、奉天(現在の瀋陽)~安東(現在の丹東)の鉄道運営による利益追求、また沿線の鉄道付属地や撫順炭鉱の運営等、満州植民地化の国策追求という二つの目的をもっていました。その他、満州の農産物の独占、鞍山製鉄所の建設、ホテル運営(ヤマトホテル)など一代コンツェルンへと成長していきました。

1919年には満鉄の経営権などの利権を守るために関東軍を設置しますが、次第に巨大化して満州利権を守る軍事力となり、日本本土の政府の統制から離れて軍事行動を展開していくようになります。1928年に奉天軍閥の総帥張作霖が北京から奉天に戻る途中に列車ごと爆破され殺された「張作霖爆破事件」、1931年に柳条湖付近で満鉄が爆破された「満州事変」はともに関東軍の謀略であったことが明らかになっています。その後、1932年に日本による傀儡国家「満州国」が建国されましたが、1937年に日中戦争に突入し、1945年の敗戦をもって満鉄はソ連軍により接収され、1952年に中国に返還されました。
※なお、1932年の満州国建国後、満州国内の満鉄以外の鉄道路線は「満州国有鉄道(国線)」という国有鉄道でしたが、実際の運営や建設は満鉄に委託され、事実上は大日本帝国政府および関東軍の影響下に置かれて管理されていました。また、後述の超特急「あじあ号」は大連からハルビンまで走っていましたが、新京(長春)〜ハルビン間は満州国有鉄道の線路を走っていたことになります。

旧満州(東北三省)への行き方、アクセス

日本から旧満州へ

コロナ禍の前は、日本から旧満州(遼寧省、吉林省、黒龍江省の東北三省)の大連、瀋陽、長春、ハルビンの各都市へ直行便が運行されており、とりわけ大連便、瀋陽便は日本各地から多くの便が就航していました。日本〜旧満州各都市への所要時間は3時間前後です。

旧満鉄路線を利用しての各都市への移動

高速鉄道を利用し時間を短縮!(撮影:ユーラシア旅行社)

満鉄時代の1934年から1943年まで、流線形のパシナ形蒸気機関車と専用固定編成の豪華客車で構成され、線路幅も日本本土の狭軌1067mmに対し標準機1435mmを採用しているためスピードアップを可能にし、最高速度130km/hを記録した夢の超特急「あじあ号」は大連~奉天を4時間50分、大連~新京(現在の長春)を8時間30分、大連~ハルビンを12時間30分で走っていましたが、現在の中国高速鉄道(日本の新幹線に相当)の各都市間のおおよその所要時間は以下の通りです。

・大連~瀋陽   約2時間
・大連~長春   約3時間30分
・大連~ハルビン 約4時間30分
・瀋陽~長春   約1時間30分
・瀋陽~ハルビン 約2時間30分
・長春~ハルビン 約1時間

急ぐ旅でなければ新幹線を利用せずとも昔ながらの列車を利用することも可能ですが、所要時間は新幹線の約3倍が目安です(停車駅も多くなります)。また旅順へは現在鉄道がありませんので、お車での移動となりますが、目安として大連から1時間30分〜2時間くらいかかるでしょう。

昔ながらの列車に乗ってゆったりと旅を楽しむのもよし(撮影:ユーラシア旅行社)

旧満鉄ゆかりの5都市おすすめの観光地

大連

満鉄本社

旧満鉄本社(撮影:ユーラシア旅行社)

2007年に満鉄創設100周年を記念し、かつての本社の一部で現在は瀋陽鉄道局大連事務所として使われている建物の一部を解放し、見学できるようになりました。かつて初代総裁後藤新平も職務に全うしたという総裁室、当時の写真や満鉄時代のマンホールなどが展示されている陳列館などをご覧いただけます。

中山広場

旧ヤマトホテル内の迎賓館(撮影:ユーラシア旅行社)

大連市中心部に位置する中山広場には、直径213mの大広場の周りに日本統治時代に建てられた10棟の建造物のうち9棟が現存しています。
中でも代表的なのが、1914年に建てられた旧ヤマトホテルでしょう。前述の通り、ヤマトホテルは当時満鉄が経営していたホテルで、当時は欧米の一流ホテルにも負けない最高級ホテルでした。現在は「大連賓館」という3つ星級ですが、日本人には人気のあるホテルです。そして今もロビーの装飾や重厚な階段は当時のままで、宿泊客でなくても参加できる日本語ガイドによるツアーでは、1階の迎賓館、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀が泊まった部屋(208号室)、毛沢東が書いたという掛け軸などをご覧頂くことができます。

他にも濃緑色のドームが特徴的な旧横浜正金銀行(現中国銀行大連分行)、赤レンガの建物が東京駅を想像させる旧大連民政署(現遼寧省対外貿易経済合作庁)などもあり、100年前にタイムスリップしたような気分を味わえます。

旧横浜正金銀行(撮影:ユーラシア旅行社)
旧大連民政署(撮影:ユーラシア旅行社)

旅順

二〇三高地(にひゃくさんこうち)

爾霊山記念碑(撮影:ユーラシア旅行社)

日露戦争(1904年~1905年)の最激戦地で、日本軍はロシアからバルチック艦隊が到着するまでに旅順を攻略するためにこの標高203mの高台を占領すべく激しい戦闘が繰り広げられ、日本軍は約10000人、ロシア軍は約5000人の死傷者を出しました。この様子は映画「二百三高地」や司馬遼太郎氏の大作「坂の上の雲」などでも描かれました。
バスや車を降りてから頂上までは10〜15分くらい歩きます。そして頂上には乃木希典将軍が戦死者を弔うために建てた「爾霊山(にれいさん)記念碑」や天気が良ければ旅順湾もご覧いただけます。

二〇三高地から見た旅順湾(撮影:ユーラシア旅行社)

水師営会見所

水師営会見所(撮影:ユーラシア旅行社)

二〇三高地の陥落を受け、ロシア軍旅順総司令官ステッセル中将から降伏の申し入れがあり、当時野戦病院として使われていた水師営の建物内でステッセル中将と日本軍の乃木将軍が会見を開き、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結されました。なお、こちらでは日本語のガイドが解説してくれます。
※水師営とは地名で、水軍の駐屯地であったことが名の由来です。

瀋陽(旧名奉天)

九・一八歴史博物館

九・一八歴史博物館(撮影:ユーラシア旅行社)

先述の柳条湖付近で満鉄が爆破された「満州事変」が起こったのは1931年9月18日。このことから中国では「九・一八事変」とも呼ばれていますが、こちらの博物館には満州事変発生から抗日戦争に至るまでの歴史が展示されています。館内のスペースは広く、また日本語による説明もありますので、時間に余裕があれば、ゆっくりご覧いただくとよいでしょう。

張氏帥府博物館

大青楼(撮影:ユーラシア旅行社)

奉天軍閥の総帥で、1928年に北京から列車で戻る途中に関東軍の謀略により爆殺された張作霖と、その長男で、抗日のため国民党の蒋介石を西安に軟禁し第2次国共合作を認めさせたという張学良の官邸兼私邸。創建は1914年で面積は3万6000㎡。敷地内にはいくつか建造物がありますが、中心的な役割を担っていた建物が3階建てのローマ式建築の大青楼で、張親子はここで暮らし政務を執っていました。現在は建物内の見学が可能となっています。

清朝初期のゆかりの地

瀋陽故宮(撮影:ユーラシア旅行社)

満鉄よりも前の時代になりますが、東北三省一帯は女真族の各部族ごとで統治が行われていた時代を経て、愛新覚羅氏のヌルハチが女真族を統一させ、1616年に後金(のちの清)を建国、1625年に瀋陽へ遷都しました。その後3代目皇帝順治帝の時代に万里の長城を越えて、1644年に北京に首都を移して中国全土を支配するまで清朝の首都は瀋陽でした。万里の長城と並ぶ北京の代表的な観光地と言えば故宮(紫禁城)ですが、瀋陽にも北京の12分の1の規模ですが故宮があります。また、瀋陽市内には初代皇帝ヌルハチの陵墓である東陵(福陵)、2代目皇帝ホンタイジの陵墓である北陵(昭陵)があり、故宮、東陵、北陵は世界文化遺産にも登録されています。

北陵(撮影:ユーラシア旅行社)

長春(旧名新京)

公式行事が行われた勤民楼(撮影:ユーラシア旅行社)

満州事変の翌年に日本の傀儡国家満州国が建国されましたが、首都は長春が選ばれて「新京」と命名されました。そして満州国の皇帝に就いたのが、清朝最後の皇帝(第12代宣統帝)でもあった“ラストエンペラー”愛新覚羅溥儀でありました。その溥儀が生活をしていたのが皇宮であり、現在は「偽満皇宮博物院」として一般開放されています。
ちなみに最初に「偽」という文字がつくのは、中国側が満州国を国として認めていないためです。敷地内にはいくつもの建物があり、溥儀の寝室などの生活場所、皇后や皇妃の部屋(皇后媛容の生活区にはなんとアヘン吸引部屋があります)、謁見の間などをご覧頂くことができます。敷地面積が広く、休み休み見学すると3時間前後要するほど、見応えがあります。

偽満州国国務院

偽満州国国務院(撮影:ユーラシア旅行社)

満州国の最高行政機関であった満州国国務院は、1936年に完成した建造物です。日本の国会議事堂をベースに、西洋古典様式と中国古典様式を融合させた興亜式と称される建築スタイルで設計されました(中央の屋根が中国式なのがおわかりでしょうか?)。なお、現在は吉林大学として使われているため、建物の中には入ることができません。

ハルビン(哈爾濱)

中央大街

モデルンホテル(撮影:ユーラシア旅行社)

ハルビンも大連と同様に小さな漁村にすぎませんでしたが、ロシアが東清鉄道の本線と南満州支線の分岐駅を作るために町を建設したところ、人口が急激に増え、近代都市として変貌を遂げました。そして、今でもロシア風の街並みが見られるのが中央大街で、1900年に建設が始められ、ロシア統治時代は「キタイスカヤ(中国人街)」と呼ばれていました。南北の直線に延びる通りで、北側の先にはアムール川(黒龍江)最大の支流松花江が流れています。全長は1450m、幅は21.34m、通りには花崗岩が敷き詰められていて、歩行者天国となっています。通りの両脇には、ルネサンス式、バロック式、折衷式など欧風建築物が建ち並び、その様子から「東方のパリ」もしくは「東方のモスクワ」と称されています。

中でも目を引くのが、1913年創建のピンク色の壁の「モデルンホテル」、1918年創建の赤いドーム屋根が特徴の日系商社であった「旧松浦洋行」、1919年創建の緑の壁の建物「旧秋林(チューリン)洋行」。現在の中央大街はショッピング街となっており、地元の人たちや観光客でにぎわっています。

旧松浦洋行(撮影:ユーラシア旅行社)
旧秋林洋行(撮影:ユーラシア旅行社)

聖ソフィア大聖堂

聖ソフィア大聖堂(撮影:ユーラシア旅行社)

ハルビンを象徴する建物と言っても過言ではないのが、赤レンガの外壁と緑の玉ねぎ型ドームを持つ聖ソフィア大聖堂です。1907年、ロシア人兵士の従軍用教会として創建されました。その後もロシアの茶商人の出資により拡張工事が行われ、1932年には現在の規模になりました。高さ53.35m、ビザンチン建築の影響を受けており、内部は2000人ほど収容できるそうです。現在は教会として使われておりませんが、内部を見学することが可能で、ハルビンの昔の街の様子の写真等が展示されています。

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