西安とは
西安は紀元前11世紀以降、13の王朝の都として二千数百年の歴史を有す古都として栄えてきました。
特に、618年に建国され、約300年間に渡る唐の時代には、アジアとヨーロッパを結ぶ長大な交易路シルクロードの東の拠点として、東西の人や文物が行き交いました。
唐の最盛期には中央アジアの砂漠地帯までも支配する大帝国ととして繁栄を極め、首都・長安(現代の西安)には、日本や新羅、吐蕃など周辺諸国からの使節や留学生、さらには遥か西方の僧侶や商人達が訪れ、国際色豊かな都として栄えていました。
630年末から894年(飛鳥時代から平安時代)にかけて日本から派遣された遣唐使には、留学生や僧侶、建設技術者などが多数同行し、政治制度、仏教、芸術工芸などを学び、日本へと持ち帰られました。
遣唐使によって当時の先進国であった唐の制度や文化は、天文、医薬、芸術、仏教の伝播、大化の改新や建都(藤原京、平城京、平安京)等、多岐にわたり、大きな影響をもたらしました。
現在の西安は陝西省の省都として人口1,000万人を超え、中国西北部最大の都市として活気に溢れています。
西安への行き方(アクセス)は?
西安へは、成田,名古屋からは中国東方航空、関空からは海南航空や深圳航空の直行便が運航(新型コロナ感染症による渡航制限前まで)されていましたが、現在運航スケジュールは流動的な為、今後は確認が必要です。
直行便以外では北京、上海などの中国国内都市で乗り継いで向かうルートが一般的です。
なお、中国では最初の到着地となる乗り継ぎ空港で入国審査を行う必要があることや、空港も大きく移動に時間がかかること、また、混雑による離発着の遅延も多いことから、充分な乗り継ぎ時間のある便の選択が必要です。
唐代の壁画を満喫!おすすめ観光1日観光モデルルート
西安市は東西の長さは約204km.南北は約116kmと広大です。西安に隣接する咸陽市と合わせて両市に点在する史跡を巡るには、どうしても時間がかかってしまいます(例えば、市内東北にある兵馬俑へは市内中心部から車で片道約1時間かかります)。西安を組み込んだ一般的な周遊ツアーでは、郊外と市内中心部の主要な観光地を2日程度で観光することが多いようです。しかし、西安を折角訪れたのなら、日本にも影響を与えた唐の時代をより感じることのできる壁画も見逃せません。
西安市の北側に残る唐の十八陵のひとつ、乾陵(けんりょう)の周囲には17の陪葬墓があり、発掘を終えた3つの墓ではその内部を見学することができます。また、これらの陪葬墓の壁画のオリジナルは陝西省歴史博物館で公開されておりますので、お墓と博物館の両方を見学するのがおすすめです。
乾陵とその陪葬墓は西安の北隣の咸陽市に、陝西省歴史博物館は西安市内にありますので、観光には1日かかります。
この記事では、唐代の壁画をテーマに巡る1日観光ルートをご紹介します。
章懐太子墓
唐の第3代皇帝の高宗と中国史上唯一の女帝となった武則天(則天武后)の第二子、李賢(655〜684)の墓。
巴州(現在の四川省)で自害させられた後、706年にここに陪葬されました。
その内部は当時の繁栄を物語る宮廷生活の様子が描かれています
馬球図
墓道の西壁に描かれた馬球(ポロ)をしている様子を描いた壁画。
この壁画に描かれたポロ競技は、紀元前6世紀の古代ペルシアを起源とし、騎馬の軍事訓練としてインドや中国、日本に伝播しました。唐代には奨励されていたこともあり、盛んに行われて、李賢(章懐太子)も馬球に熱中していたと伝えられています。
客使図
墓道の東壁に描かれた高さ185cm、長さ247cmの壁画「客使図」は、唐の外交機関である鴻叡寺の官員(役人)が外国使節を接待する場面が描かれています。左側の3人が鴻叡寺の役人、いわば唐代の外交官で何事かを厳かな表情で相談している様子です。
■右側の3人は役人に連れられて宮中に参内する外国からの使者と考えられています。それぞれの使者は、以下のように考えられています。
■左側の使者:光頭で髭を蓄え、濃い眉と彫りの深い顔立ち、その服装から東ローマ帝国の使者
■中央の使者:顔広く、はっきりとした眉、朱の唇と頭にかぶった赤い羽のついた小冠などの服装や靴から朝鮮半島(新羅国)の使者
■右側の使者:丸い顔、皮の帽子の形状、服装から中国の東北部の少数民族(遊牧民)の使者
この客使図からは当時の唐の繁栄ぶりを偲ぶことができるとともに、中国古代の外交が描かれたものは極めて稀なことから、史料としても大変貴重なものとされています。
懿徳太子墓
唐の第4代・第6代皇帝の中宗の長男で高宗と武則天の孫の李重潤(682〜701)の墓。
武則天に洛陽で殺された後、中宗により706年にこの地に埋葬されました。
発掘調査では、唐三彩、各種金属製品など1000余点の出土品と墓道から墓室に至る壁面に描かれた40幅もの壁画が発見されました。
この威徳太子墓の壁画は画幅が大きく内容豊かで、色彩は華麗、まさに唐代の壁画ギャラリーともいえます。
闕楼図(けつろうず)
墓道の東壁に描かれた朱色が印象的な「闕楼図」。
懿徳太子墓は、墓道を城門前面の通路に見立てて、壁面に宮城門から前方に張り出した闕が描かれました。
この壁画には、扉や窓、高欄、屋根など建築の細部に至るまで描写されており、現存していない当時の宮廷の建物を現代に伝える貴重な史料になっています。
儀仗図
懿徳太子墓で闕楼図とともに代表的な壁画として知られるのが儀仗図です。
皇族や高官、賓客の儀礼や警護にあたる儀仗兵の顔立ちがそれぞれ異なり、階級により服の色も分けられ、当時の様子を細やかに表しています。
永泰公主墓、乾陵博物館
中宗の第七皇女で高宗と武則天の孫の李仙蕙(685〜701)の墓。兄と夫と共に謀議を行ったとされ、武則天に自害を命じられたとも、南山で亡くなったとも伝えられています。
当初洛陽に埋葬されていましたが、武則天の死後、即位した中宗により、706年に乾陵に陪葬されました。
墓は南北に全長87.5mで、墓道、甬道、前室、後室の4部分からなり、盗掘を受けていたものの三彩俑(さんさいよう)、陶磁器など多数の副葬品が発見され、墓道から墓室に至る壁面や天井に描かれた白虎、宮女図、儀仗隊、天象図など多くの壁画で知られています。
同じ敷地内にある乾陵博物館には、陪葬墓で発掘された品か展示されていますのであわせて見学すると良いでしょう。
宮女図
永泰公主墓で最も有名な壁画は、日本の高松塚古墳の壁画のルーツとも言われる宮女図。上の写真の宮女図には9人の宮女達が描かれており、先頭の女性に続く8人は漆の皿、薫炉、高足杯などを持って列をなしています。
宮女図で描かれた宮女達は、盛唐の女性達と比べてほっそりとしています。そして、宮女それぞれの髪型や容姿、服装が異なり、実に個性豊かに描かれています。
この9人が規則的に配置されていない構図と、力強い線、ほほ等身大で描かれていることからとても生き生きとして見えるのも特徴的です。
乾陵(けんりょう)
西安の北部に点在する唐の十八王陵の中でも保存状態が良いと言われる陵墓、乾陵。
唐の高宗と武則天の合葬墓で、自然の山を丸ごと利用し、長安の都を模して造られた壮大な陵墓です。
参道を挟んで華表、翼馬、無字碑、六十一蕃臣の石像等の石造彫刻が100あまり現存し、唐の威信に満ちた時代を今に伝えています。
陝西省歴史博物館 壁画珍品館
この記事で紹介した3つの墓の壁画は保存の為に剥離され、現在は西安市内の陝西省歴史博物館内なある壁画珍品館に展示されています。発掘されるまでの1000年近く壁画が眠っていた墓の内部を見学してから壁画のオリジナルを見ることで一層印象深いものとなることでしょう。
唐代壁画珍品館は、非常にデリケートな壁画を最新の技術で外気や紫外線を遮断した特別な展示室です。
面積3400㎡、長さ800mにも及ぶ展示室には、この記事で紹介した壁画を始め、97幅の貴重な唐代の壁画が展示されています。なお、陝西省歴史博物館の常設展では周、秦、漢、唐の時代の品々が展示されており、かなり見応えがあります。博物館をじっくりたっぷり見学したい場合は、常設展の見学に更に半日、時間を設けると良いでしょう。
(陝西省歴史博物館の常設展は入場無料、壁画珍品館は270元/2021年3月現在)