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要塞?集合住宅?摩訶不思議な客家土楼(福建土楼)

2022 3/07
目次

客家土楼とは?

田螺坑土楼群(撮影:ユーラシア旅行社)

客家の歴史

客家(はっか)は、もともと黄河中流域の中原に住んでいた漢民族の一派でありましたが、西晋末期に異民族による反乱「永嘉の乱(307~312年)」が起こり、それ以降、戦乱を避けるために中原の地を離れ、中国南部へ逃れてきたと考えられています。その移動は南宋末の12世紀ころまで断続的に続きました。しかし、たどり着いた地にも先住民がおり、移動してきた彼らは僻地の山間部に住まざるを得ませんでした。現在、客家の人々は福建省、広東省、江西省の省境地域を中心に、中国南西部の広範囲にわたり暮らしていますが、そこは共通して交通の不便な山間部であります。

なお、客家とはそもそも「客而家焉」(客にして家す)という意義であり、客家の「客」は客人ではなく、「他の場所から出てきた者」もしくは「よそ者」を示しており、すなわち征服王朝とそれを跳ね返す漢民族の攻防で織りなされた中国の歴史がつくりだした「客」が「客家」なのであります。
客家は、中国の国外で暮らす華僑(在外華人)人口の約3分の1を占め、客家を含む華僑は、ユダヤ人、アルメニア人、印僑(インド系移民)と共に四大移民集団のひとつと言われています。

★著名な客家人
・洪秀全(太平天国の天王)
・宋慶齢(孫文夫人)
・宋美齢(蒋介石夫人)
・鄧小平(元中国最大指導者)
・李登輝(元台湾総統)
・蔡英文(現台湾総統、客家人と台湾原住民=パイワン族とのハーフ)
・胡文虎(タイガーバームの創業者)
・リー・クアンユー(シンガポール初代首相)
・リー・シェンロン(リー・クアンユーの息子で現在のシンガポール首相)
・コラソン・アキノ(元フィリピン大統領)
・ベニグノ・アキノ3世(コラソン・アキノの息子で元フィリピン大統領)

客家土楼(福建土楼)の建築

「円楼」の振成楼(撮影:ユーラシア旅行社)
「方楼」の慶成楼(撮影:ユーラシア旅行社)

「よそ者」として異郷の辺鄙な山間地で暮らすには、一族が団結して集団で事に当たる必要があり、また自然災害や強盗、野生動物から身を守る必要がありました。そこで築き上げられたのが、巨大な集合住宅、客家の土楼でありました。

土楼はその外観から、おおまかに五鳳楼、方楼、円楼の3つに区分ができ、時代的には漢代の建築要素を色濃く残す五鳳楼が最も古く、その後に方楼が登場し、より強固な円楼に発展したと言われています。福建省で多く見られるのは方楼と円楼です。

「土楼」の名は、いずれの土楼も外壁を自然の土で築くことからついたものであり、外壁は土でありますが、 基礎の部分は石で内側の部分は木造です。厚さ1m以上の土壁に守られる土楼は、冬は暖かく、夏は涼しく、台風や地震などの災害にも強い構造となっています。土楼は一般に4〜5階建てで、外壁の内側、空間の中央に一族の祭祀の場、祖堂が置かれています。1階は厨房や食堂、2階は倉庫、3階以上が居室となり、一家族の居住空間は縦に連なっています。1つの土楼は城壁に守られ内側に開かれた1つの村、いや都市国家と言っても過言ではないかもしれません。

土楼での暮らしぶり

生活感漂う文昌楼(撮影:ユーラシア旅行社)

1つの土楼には通常、血縁の一族が数十戸から100以上も共に暮らしており、住人の数は大規模なもので600〜700人に達します。

山あいの僻地に定住した客家の人々は、主に農業を営みながら、一族が団結して封建的家族制度を維持してきました。その中心となった一家の長は、つねに一族の繁栄を願って祖先を祀り、家族全員を統率して内を治め、外には一家を代表して事にあたりました。ここでは家計も共同であり、収入は家長に渡され、消費も共同の家計から支出され、余ったお金は共同財産として貯えられます。

客家の人々は教育熱心であり、男子は外に出て活躍することを求められました。男性が外に出て稼ぐ一方で、基本となる土楼の生活、内を守ったのは女性でした。そのため客家の女性は纏足をせず、重労働である山間地での農作業もこなしてきました。

しかし、土楼も近代になると、多くの客家が華僑として海外へ出ていき、空きが目立つようになっています。

客家土楼(福建土楼)へのアクセス

日本からアモイ(厦門)へ

日本からアモイ(厦門)まで、成田からは全日空及び厦門航空、関空から厦門航空にて直行便が運行されておりました。日本〜アモイへの所要時間は4時間前後です。

※航空機の運航スケジュールは、各航空会社のホームページをご確認ください。

アモイから客家土楼(福建土楼)(永定県、南靖県)への移動

福建省内に客家土楼(福建土楼)は約3000あると言われていますが、中でも代表的なエリアは、承啓楼、振成楼のある永定県、田螺坑土楼群のある南靖県となります。アモイから永定県まで車やバスで目安として3時間〜3時間半かかります。なお南靖県は永定県よりも20kmほど手前にありますが、ビジターセンターにて景区内のバスに乗り換える必要があります(ビジターセンターから田螺坑土楼群までは景区内バスで20分ほどかかります)。

ちなみに、2021年に世界文化遺産に登録された「宋元中国の海洋商業貿易センター」の泉州から車やバスで行く場合、永定県まで3時間半〜4時間、南靖県までは3時間〜3時間半かかります。

客家土楼(福建土楼)のおすすめ観光地

客家土楼(福建土楼)は、「生活と防衛を集団で行う組織の、特徴的な伝統的建築と機能の例として、またその環境と調和したあり方に関して」優れた点が認められ、2008年に世界文化遺産に登録され、それに伴いまして観光するにあたり、遊歩道やトイレなども設備されてきました。今回ご紹介いたします各土楼につきましては、景区内に位置しており、入場券が必要となります。各土楼は観光地化されていますが(特に1階部分はお土産屋が軒を連ねています)、いまだ人々が暮らしていることもあり、ほとんどの場合2階以上に上がることができません。なおまれに上がることができる場合もありますが、その場合は、別途料金がかかることがほとんどです。また、ご宿泊のホテルによっては近くに観光地化されていない土楼があり、交渉次第では土楼の中へ、そして2階以上へ上がってもいいと言われることもあります。いずれの場合にせよ、あくまでも人々の生活の場でありますので、写真撮影等、細心の注意が必要です。

承啓楼(永定県)

「土楼王」と称される承啓楼(撮影:ユーラシア旅行社)

承啓楼は、江集成により、清代の1712年に建造されました。敷地面積は5376㎡、 高さ16.4m、直径73m、 外壁の円周229mにも達する巨大な円楼で、その規模と美しさから「土楼王」と称されています。外側の4階建ての主楼の内側にさらに三重に円楼があり、外から2番目は2階建て、3番目は平屋建て、4番目は屋根付きの円形通路となっており、さらに中心には祖堂が配置されています。部屋数の合計はなんと400!最も多いときは80家族600人以上が住んでいたと言われており、現在も江家一族が300人ほどが住んでいるそうです。

なお、現在は観光客が2階以上に上がることはできませんが、有料ですがご希望の方は上から承啓楼の様子が写ったスナップ写真を撮ってもらうことが可能です(出来上がりはA4サイズで、パウチしてくれます)。

承啓楼の内部(撮影:ユーラシア旅行社)

振成楼(永定県)

「土楼王子」振成楼(撮影:ユーラシア旅行社)

承啓楼から5kmほど離れたところに「永定土楼民俗文化村」とも呼ばれる洪坑土楼群があり、明清時代に築かれた46もの土楼があります。その洪坑土楼群を代表する大きな円楼が振成楼で、1912〜1917年に裕福なタバコ販売業者の子孫、林鴻超により築かれました。別名は「八卦楼」、あるいは承啓楼の土楼王に対し「土楼王子」とも呼ばれています。敷地面積は5000㎡、高さは16m、直径は57.2mで、二重円楼となっており、外側が4階建てで184部屋ありますが、八卦思想に基づき8等分されており、等分されたブロックの間には防火壁が設けられ、火災が発生しても建物全体に波が及ばないようになっています。内側が2階建てで32部屋あります。

振成楼の内部に設けられている防火壁(撮影:ユーラシア旅行社)

なお、振成楼のすぐ近くに方楼(四角形の土楼)の慶成楼があり、2階から上に上がることができました(2016年現在)。

方形の慶成楼(撮影:ユーラシア旅行社)

田螺坑土楼群(南靖県)

田螺坑土楼群(撮影:ユーラシア旅行社)

先にも述べましたが、永定県の土楼群から20kmほど離れたところに田螺坑土楼群景区の入口(ビジターセンター)にて景区内バスに乗り換える必要があり、20分ほど走ると田螺坑土楼群に辿り着きます。バスを降りると展望台があり、上から5つの土楼を見下ろすことができます。中央に位置する方楼の歩雲楼で、その周りを3つの円楼(和昌楼、振昌楼、瑞雲楼)と1つの楕円楼(文昌楼)が囲んでいます。

その後、階段を下りて各土楼に近づき、中に入ることもできますが、そのうちの1966年に建造された文昌楼は、2階から上に上がることができました(2016年現在)。

楕円形の文昌楼(撮影:ユーラシア旅行社)

裕昌楼(南靖県)

柱が左右ジグザグな裕昌楼(撮影:ユーラシア旅行社)

先の田螺坑土楼群から景区内バスに乗り、さらに5分ほど奥に行くと裕昌楼があります。1308年(元代)に劉、羅、張、唐、範の5氏の協力により建てられた中国で最も古く高い土楼の1つです。5階建てで高さは18.2m、直径36m、敷地面積は2289㎡。各階に姓ごとに5ブロックに分けられ、各ブロックにはそれぞれ1階から5階までを結ぶ階段があります。そしてこの土楼は「東倒西歪楼」とも呼ばれていますが、これは縦材の支柱構造が水平垂直でなく、左右ジグザグになっているためです。建材の測量ミスが原因でこのように造られましたが、見た目の脆弱さにもかかわらず、700年間も自然の作用や社会的混乱に耐えてきたというこの土楼は一見の価値があります。

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