エトルリア人とエトルリア文明とは
古代ローマが勃興する前のイタリア半島に都市と文明をもたらせたエトルリア人。紀元前8世紀頃からイタリア半島中部に複数の都市が形成され、イタリア半島南部のギリシャ人や海の向こうのカルタゴの影響も受けながら勢力を拡大していきました。都市の形成や見事な建築技術、高い芸術性等はその後古代ローマの礎にもなりましたが、紀元前4世紀頃から台頭し始めた古代ローマに徐々に同化され、歴史の表舞台からは姿を消して行きました。
しかし今日でもフィレンツェがある”トスカーナ州”、イタリア半島の西側に広がる”ティレニア海”に名前を残しており、エトルリアの最大都市の一つであったタルクィニアを中心に当時の出土品がエトルリア人の文明を今日に伝えています。
エトルリア人の領土と都市群
エトルリア人はローマを流れるテヴェレ川とフィレンツェを流れるアルノ川に挟まれた今日のトスカーナ州、ウンブリア州、ラツィオ州にまたがる地域に紀元前8世紀頃から都市を形成し始めました。各都市は独立していて中央集権的な体制は持っておりませんでした。
現在でも比較的大きな町であるペルージャ(Perusia)やコルトーナ(Curtun)の名前もあります。ローマの北西にあるタルクィニア(Tarchna)はエトルリアで最大級の都市で、現在もエトルリア都市として世界遺産に登録されています。
紀元前8世紀から前6世紀にかけて勢力を拡大したエトルリア人達は、北はポー川流域に進出し、ルネサンス期から今日まで繁栄しているマントヴァの街、南はティレニア海伝いにナポリがあるカンパーニャ州まで勢力を伸ばし、イタリア半島南部のギリシャ系都市と激突するようになり、同じくギリシャ都市と対峙していたカルタゴと同盟も組みました。
初期の都市ローマの形成には、エトルリア人やその文化・技術も少なからず影響を与えましたが、エトルリアとは違って中央集権的な体制を整備したローマは紀元前4世紀頃からイタリア半島に瞬く間に勢力を伸ばし、エトルリア人は徐々に同化され、歴史の表舞台から姿を消していきました。
エトルリア文明のレガシー、古代ローマに引き継がれた建築技術や高い芸術性
アーチ技術
アーチの技術は古代メソポタミアやエジプトでも存在していましたが、本格的に都市の建設に利用したのがエトルリア人でした。ペルージャのエトルリア門(写真上)は、エトルリア人達が築いた城壁に紀元前3世紀頃に建てられ、エトルリア式アーチ技術を今日に伝えています。近くのコルトーナの街にもアーチを用いたエトルリア門が残されています。
壁画
エトルリアの壁画は、タルクィニアのネクロポリスを中心に比較的良い状態で保存され、今日にエトルリア人の高い芸術性を伝えています。絵画様式はギリシャの影響が色濃く、墳墓には故人や日常風景もあったものの、主に神話的場面が描かれていました。ギリシャ本土の絵画の大半は失われてしまっている為、その流れを汲むエトルリアの壁画は、プレローマの芸術性の高さを今日に伝える貴重な遺構になっています。
彫刻
エトルリア人は絵画だけでなく、彫刻技術も優れていました。上部の写真はトスカーナ州の古都アレッツォで発見されたエトルリア芸術の最高峰とも言われる『アレッツォのキメラ』という彫刻作品です。16世紀に発見したメディチ家のコジモ大公が大層気に入ったという逸話でも知られており、現在でもフィレンツェで展示されています。
下部の写真は、タルクィニア近郊で発見された『有翼の馬像』。モチーフはギリシャ由来でなく、エトルリア独自のものとされており、現在でもタルクィニアやエトルリアのシンボルの一つになっています。近郊にある神殿の一部として飾られていたと考えられています。
いずれの作品もエトルリア芸術がピークを迎えたと言われる紀元前5世紀頃の作とされています。
石棺
エトルリア人の優れた彫刻技術は、石棺の装飾でも活躍しました。エトルリア人達は故人の埋葬に、本人の姿を石棺の蓋に掘り込みました。この風習は後に古代ローマにも広まりましたが、元々はエトルリア人達の発明です。
陶器類
陶器は古代ギリシャの影響を色濃く受けており、徐々にエトルリア人の間でも広まったギリシャ神話をモチーフに描かれたお皿や壺が多数発見されています。