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アルファベットを発明した、古代の海洋民族フェニキア人

2023 2/12
目次

フェニキア人とは

ウィリアム・ターナー『ディドによるカルタゴの建設』(ロンドン/ナショナル・ギャラリー)

フェニキアとは元々レバント地方の海岸線地域(主に現在のレバノンにシリア。イスラエルの一部海岸部)を指していた地名です。語源は諸説ありますが、フェニキア人達の主力輸出品の一つであった貝から抽出していた紫色の染料のギリシャ語に由来すると言われています。紀元前12世紀頃から力を持った都市国家群(ビブロス、ティルス等)が形成され、海洋交易を生業として繁栄を築き始めました。最盛期には西地中海の大半を支配して、カルタゴを始めとする植民都市が各地の良港に建設され、ギリシャと並ぶ二大勢力の一角に立ちます。しかしながら、紀元前3世紀頃から勢力を伸ばして地中海進出を始めたローマ帝国の前に最大都市カルタゴが三度のポエニ戦争で敗北し、歴史からその姿を消す事になりました。

現代アルファベットの原型となったフェニキア文字の発明、レバノン杉や紫染料の輸出、古代世界にブームを巻き起こした吹きガラスの技術など文化・商業の面で古代地中海世界において大きな存在感を放ち、カルタゴ建設後はハミルカル、名将ハンニバル父子による軍事面での躍進でも歴史にその名を刻みました。

フェニキアの船の彫刻(C)Elie PlusCC BY-SA 3.0)

フェニキア文字、アルファベットとは

ベイルート国立博物館所蔵フェニキア文字の碑文(撮影:ユーラシア旅行社)

通商を生業としていたフェニキア人にとって言語能力は不可欠でした。既にエジプトやメソポタミアにおいて利用されていた楔形文字を発展させたフェニキア文字は22字のアルファベットとして整備され、フェニキア人の行く先々の異国人の言語にも影響を与えるようになりました。ギリシャ語のアルファベットはフェニキア文字のアルファベットから生まれ、それは現代の欧州各言語にまで脈々と繋がっています。また、同じくフェニキア文字のアルファベットから派生し、キリストの時代の言語としても知られるアラム語はアラビア語やヘブライ語を生み出し、フェニキア文字やアルファベットの流れが脈々と受け継がれています。
さらにインドのブラーフミー文字もアラム語の流れを汲むという有力な説もあり、それが正しければフェニキア文字は現代のインド、東南アジア、モンゴル、チベット等までその影響が及んでいると言えます。

フェニキア人の版図、交易路

東側の赤丸がフェニキア人都市、白丸がフェニキア人の植民都市(C)Encyclpedia Britannica

地中海の東端、レバント地方の海岸線地域(主に現在のレバノンにシリア。イスラエルの一部海岸部) にあるByblos(ビブロス)やTyre(ティルス)を中心にその礎を築いたフェニキア人はやがてギリシャ勢力が既に進出して多くの植民都市が築かれていた東地中海を避け、西地中海のアフリカ側とイベリア半島や間の島々(シチリア島、マルタ島、サルディーニャ島、イビサ島等)に進出して多くの植民都市を築いていきます。その中心が地中海中央部、シチリア島の南西に位置する現チュニジアにあるCarthage(カルタゴ)でした。アッシリア、バビロニア、ペルシャ、マケドニア等度重なる外部からの攻撃を受けて東地中海側の都市が壊滅した後もカルタゴはしばらく繁栄を続けました。

フェニキア人の故郷、現在のレバノンの都市群

ビブロス

ビブロス遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

現レバノンの首都ベイルートから少し北に位置するビブロスは、フェニキア人の中心都市で現在も当時の栄光を遺跡が語り継いでいます。ビブロスの歴史は古く、先史時代からの遺物や遺構も見つかっており、紀元前5千年頃には既に集落が形成されていて、世界でも最も長く人間が住み続けている都市の一つに数えられています。都市名の語源はギリシャ語の紙という言葉で、フェニキア人達がエジプトのパピルスをビブロス経由でギリシャに輸出していた事に由来しています。ちなみに聖書(Bible)の語源でもあります。
現在の遺跡の目玉はフェニキア時代のオベリスク神殿で、現在ベイルートの博物館にある多数のフェニキア人形が発見されました。異なる時代の遺物が発見されたビブロスの歴史を物語る地層や十字軍時代の砦跡も残っています。

ティルス

ティルス遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

北のビブロスと並ぶフェニキアの都市国家のもう一方の雄がベイルートの南側に位置するティルスです。ビブロス程ではないものの、こちらも約5000年に渡って人が住み続けている世界で最も歴史が古い年の一つに数えられます。ギリシャ神話ではティルスの王女エウロパをゼウスがギリシャにさらったことにより、エウロパが連れ去られた地をエウロパ(Europa)、つまりヨーロッパと呼ぶようになったのが現在のヨーロッパの語源になったという有力な説があります。また、この記事でも冒頭のターナーの絵に描かれているテーマもティルス出身の王女ディド(エリッサ)がティルスの政争から逃げ出してカルタゴに新しい都市を築いたという伝説に基づいています。
特に紀元前12世紀頃から約千年続くフェニキア時代の黄金期にはアッシリア、バビロニア、ペルシャ等周囲の大国とうまく融和して自治を維持しながら海洋貿易を通じて大きな繁栄を手にしたティルスですが、紀元前4世紀にアレキサンドロス(大王)がやってきた際には徹底して抵抗し、結果街が破壊されて市民も殺されるか奴隷にされるかという憂き目にあってしまった為、現在見られる遺跡は主にローマ時代に再建されたものです。しかし、この地に立てば古のフェニキア人に想いを馳せてロマンを感じる事はできるでしょう。

サイダ(シドン)

エシュムン遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

サイダ(シドン)はベイルートとティルスの間に位置する古代フェニキア都市の一つで長らくティルスともライバル関係にありました。残念ながら海岸部はその後の時代の建築物でフェニキアの遺構は残っていませんが、少し内陸にフェニキア人達が築いた神殿が残るエシュムン遺跡があります。
紀元前7世紀に建造された神殿はフェニキア人の癒し、再生の神エシュムンを祀っており、地域の宗教的中心としてその後のローマ時代まで栄え続けますが、何度かの地震やキリスト教の台頭によって荒廃して行きました。

ベイルート

ベイルート国立博物館所蔵、ビブロスで発見されたフェニキア人の青銅人形(撮影:ユーラシア旅行社)

現在のレバノンの首都ベイルートもまたフェニキア人都市にルーツを持ちます。残念ながら現代に残されているのはローマ時代の遺構のみですが、フェニキア人の痕跡を伝える展示が充実している国立博物館は必見です。特にビブロスで発見された神に捧げられた青銅人形、アルファベットの原型になったフェニキア文字も刻まれたアヒラム王の棺やタブレット等フェニキアのコレクションは世界一です。

ベイルート国立博物館所蔵ビブロス王アヒラムの石棺(撮影:ユーラシア旅行社)

フェニキア人の栄光、カルタゴと衛星都市ケルクアン(チュニジア)

カルタゴ

カルタゴの中心ビュルサの丘(撮影:ユーラシア旅行社)

フェニキア人の歴史を語る上で避けて通れないのが、ティルスの植民都市として現在のチュニジアに築かれたカルタゴです。伝説ではティルスの王女ディド(エリッサ)が本国の政争を逃れて辿り着いた土地に植民都市を築いたのが始まりとされていますが、実際に本国ティルスから難を逃れて移住した人も多く、伝説の流れは史実に近かったと考えられています。紀元前9世紀頃に建設された後は本国ティルスを越える勢いで繁栄し、やがてギリシャと地中海を二分する勢力にまで台頭し、西地中海に数多くの植民都市を築いていきます。海洋技術に長けたカルタゴ人はジブラルタル海峡を抜けてアフリカのセネガル周辺や北側のドーバー海峡周辺まで到達したと言われています。

カルタゴ国立博物館所蔵 古代カルタゴの復元図(撮影:ユーラシア旅行社)

東地中海の雄ギリシャと西地中海を治めるカルタゴが激突するのは時間の問題でした。特に地中海の要衝、シチリア島がその最前線になり、何度かギリシャ(主に植民都市シラクサ)とカルタゴが戦いを交えながら拮抗状態が続きました。しかし間隙を縫って急速に勢力を伸ばして来たのがイタリア半島のローマでした。紀元前3世紀に100年以上に渡って大きな戦争が三度交わされるローマ対カルタゴのポエニ戦争の火蓋が切って落とされる事になります。カルタゴは名将と称賛されるハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカ父子の活躍によってローマを苦しめましたが、最後には力尽き、ローマによってカルタゴ市民は虐殺され、市街は徹底的に破壊されました。
現在のカルタゴ遺跡はユリウス・カエサルが再建したローマ領カルタゴが大半ですが、フェニキア時代の中心であったビュルサの丘、上の復元図にも描かれている軍港・商業港の跡や墓標が並ぶ聖地トフェ等フェニキア時代のカルタゴの姿を語り継ぐ遺構も見学する事が出来ます。

トフェの聖地(撮影:ユーラシア旅行社)

稀代の名将ハンニバル・バルカ(前247-182?)
カルタゴの名門バルカの家でハミルカルの息子として生まれ、幼少時から英才教育を施されました。第一次ポエニ戦争の後で父がスペインにカルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)を築くと、同行して以後スペインを起点に活動し、父、そして義理の兄ハスドラバルが亡くなると司令官に就任していよいよ対ローマの軍事行動を起こします。これが第二次ポエニ戦争です。
アルプス越え、連戦連勝のイタリア半島縦断などハンニバルは軍事的手腕をいかんなく発揮し、ローマを震え上がらせましたが、正面対決を避けて持久戦に切り替えたローマが徐々に挽回し、カルタゴ本国の積極的支援も得られなかったハンニバルは南イタリアで孤立し、やがて本国帰還を余儀なくされました。本土を蹂躙されたローマはカルタゴに迫り、スキピオ率いるローマ軍がハンニバルを破って第二次ポエニ戦争に終止符を打ちます。ハンニバルは戦後復興の陣頭指揮を取って成果を上げたものの、内紛でカルタゴを脱出せざるを得ず、以後小アジアやシリアに流浪の果てに、ローマの追手を振り切れずにビティニア(現在のトルコ北部)で自害したと言われています。
ローマが書いた勝者の歴史の中では悪役で残忍に描かれる事が多いですが、殲滅戦を用いた戦術は後世までお手本とされ、同じくアルプス越えを敢行したナポレオンもハンニバルに畏敬の念を抱いてその名前を自身の有名な絵画に描かせた事でも知られています。チュニジア5ディナール札の肖像にもなっており、ローマに立ち向かった英雄として今も慕われています。

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ケルクアン

ケルクアン遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

ケルクアンはカルタゴの先に突き出たボン岬の付け根に位置するフェニキア都市です。カルタゴの衛星都市として築かれたと考えられており、ポエニ戦争後に放棄されてローマ時代に入ってから再建もなされなかった為、フェニキア人の都市がそのままの姿で残る貴重な遺跡です。居住区の整然とした街並みやところどころにある装飾等が当時の街の様子を偲ばせます。

ケルクアン遺跡、タニト神が描かれた床モザイク

西地中海のフェニキア都市

モツィア(イタリア/シチリア島)

モザイク画残るモツィア遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

シチリア島西部の沖合に浮かぶモツィアは、長らくカルタゴとギリシャ(植民都市シラクサ)の対立が続いていた時代にカルタゴの最重要拠点の一つでした。島全体がフェニキア都市として発展しましたが、紀元前398年の戦いでシラクサに徹底的に破壊され、以後カルタゴはシチリア本土側のマルサラやパレルモに比重を置き、モツィアは打ち捨てられました。そのおかげでチュニジアのケルクアンと同様にローマ化されていない純粋なフェニキア都市の遺跡を見る事ができます。
モツィアからはヘレニズムの影響が強い『青年像』と呼ばれる古代彫刻の傑作が見つかっており、島のホイタッカー博物館に展示されています。

ホイタッカー博物館の『青年像』(撮影:ユーラシア旅行社)

タロス (イタリア/サルディーニャ島)

タロス遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

イタリア領サルディーニャ島の西側、オリスターノに程近い半島に位置するタロス遺跡は、フェニキア人達の同島における最重要拠点の一つでした。サルディーニャ島独自のヌラーゲ文明の都市の跡地に建設され、フェニキア時代の後にローマ・ビザンチンと街が上書きされた為フェニキア人の足跡はほとんど残っていませんが、海に囲まれた立地は典型的なフェニキア都市のそれです。

サ・カレタ(スペイン/イビサ島)

サ・カレタ遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

現代ではヒッピーやナイトライフの島として知られるスペイン領のイビサ島ですが、2500年前はフェニキア人の西地中海の前線基地でした。島の中心イビサから南西の入り江にサ・カレタと呼ばれる世界遺産にも登録されているフェニキア人の都市跡が残っています。チュニジアのケルクアンと同じように、フェニキア人の居住区を見て回る事ができます。

カルタヘナ(スペイン)

古代の遺構が残るカルタヘナの街中(撮影:ユーラシア旅行社)

スペイン南部の港町カルタヘナは、その都市名自体が「新しいカルタゴ」を意味し、紀元前3世紀に名将ハンニバルの義兄にあたるハスドラバルが築いたのが始まりです。この街はカルタゴのイベリア半島制圧の拠点になり、港にはカルタゴ船団の大群が停泊していたと言われています。カルタヘナ近郊の海底からフェニキア時代の船も何隻か発見されていて、カルタヘナの海底考古学博物館でも展示されています。

古代フェニキア船(カルタヘナ海底考古学博物館)
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