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伝説の古代都市カルタゴ(チュニジア)と遺跡

2022 11/09
目次

カルタゴとは

Turner_Dido_Building_Carthage
ウィリアム・ターナー『ディドによるカルタゴの建設』(ロンドン/ナショナル・ギャラリー)

伝説ではティルスの王女ディド(エリッサ)が本国の政争を逃れて辿り着いた土地に植民都市を築いたのが始まりとされていますが、実際に本国ティルスから難を逃れて移住した人も多く、伝説の流れは史実に近かったと考えられています。紀元前9世紀頃に建設された後は本国ティルスを越える勢いで繁栄し、やがてギリシャと地中海を二分する勢力にまで台頭し、西地中海に数多くの植民都市を築いていきます。海洋技術に長けたカルタゴ人はジブラルタル海峡を抜けてアフリカのセネガル周辺や北側のドーバー海峡周辺まで到達したと言われています。紀元前4世紀に入ってティルスがアレキサンドロス大王によって破壊されると、さらに多くの人が流入し、カルタゴは地中海第一の都市に上り詰めます。

東側の赤丸がフェニキア人都市、白丸がフェニキア人の植民都市(C)Encyclpedia Britannica
カルタゴ国立博物館所蔵 古代カルタゴの復元図(撮影:ユーラシア旅行社)

東地中海の雄ギリシャと西地中海を治めるカルタゴが激突するのは時間の問題でした。特に地中海の要衝、シチリア島がその最前線になり、何度かギリシャ(主に植民都市シラクサ)とカルタゴが戦いを交えながら拮抗状態が続きました。しかし間隙を縫って急速に勢力を伸ばして来たのがイタリア半島のローマでした。紀元前3世紀に100年以上に渡って大きな戦争が三度交わされるローマ対カルタゴのポエニ戦争の火蓋が切って落とされる事になります。カルタゴは名将と称賛されるハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカ父子の活躍によってローマを苦しめましたが、最後には力尽き、ローマによってカルタゴ市民は虐殺され、市街は徹底的に破壊されました。
現在のカルタゴ遺跡はユリウス・カエサルが再建したローマ領カルタゴが大半ですが、フェニキア時代の中心であったビュルサの丘、上の復元図にも描かれている軍港・商業港の跡や墓標が並ぶ聖地トフェ等フェニキア時代のカルタゴの姿を語り継ぐ遺構も見学する事が出来ます。

稀代の名将ハンニバル・バルカ(前247-182?)
カルタゴの名門バルカの家でハミルカルの息子として生まれ、幼少時から英才教育を施されました。第一次ポエニ戦争の後で父がスペインにカルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)を築くと、同行して以後スペインを起点に活動し、父、そして義理の兄ハスドラバルが亡くなると司令官に就任していよいよ対ローマの軍事行動を起こします。これが第二次ポエニ戦争です。
アルプス越え、連戦連勝のイタリア半島縦断などハンニバルは軍事的手腕をいかんなく発揮し、ローマを震え上がらせましたが、正面対決を避けて持久戦に切り替えたローマが徐々に挽回し、カルタゴ本国の積極的支援も得られなかったハンニバルは南イタリアで孤立し、やがて本国帰還を余儀なくされました。本土を蹂躙されたローマはカルタゴに迫り、スキピオ率いるローマ軍がハンニバルを破って第二次ポエニ戦争に終止符を打ちます。ハンニバルは戦後復興の陣頭指揮を取って成果を上げたものの、内紛でカルタゴを脱出せざるを得ず、以後小アジアやシリアに流浪の果てに、ローマの追手を振り切れずにビティニア(現在のトルコ北部)で自害したと言われています。
ローマが書いた勝者の歴史の中では悪役で残忍に描かれる事が多いですが、殲滅戦を用いた戦術は後世までお手本とされ、同じくアルプス越えを敢行したナポレオンもハンニバルに畏敬の念を抱いてその名前を自身の有名な絵画に描かせた事でも知られています。チュニジア5ディナール札の肖像にもなっており、ローマに立ち向かった英雄として今も慕われています。

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カルタゴへのアクセス、行き方

カルタゴ移籍へは、首都チュニスのマリン駅から列車で約30分でカルタゴの中心に位置するカルタゴ・ハンニバル駅に到着し、そこから徒歩で訪れる事ができます。
専用車やタクシーでも約30分で到着します。

カルタゴ遺跡のみどころ5選

ビュルサの丘

ビュルサの丘(撮影:ユーラシア旅行社)

古代カルタゴの中心として栄えた丘。ビュルサは牛の皮を意味し、最初にカルタゴを訪れたエリッサ(ディド)が牛の皮で囲えるだけの土地を与えると言われた時に皮を薄く切って丘全体を囲った事に因んでいます。
第三次ポエニ戦争後に破壊されフェニキア時代の遺構はほとんど残っていませんが、丘から軍港を見下ろす斜面にフェニキア時代の貴重な住居群跡が発見されました。

カルタゴ国立博物館所蔵 古代カルタゴの復元図(撮影:ユーラシア旅行社)

カルタゴ博物館

カルタゴ博物館(撮影:ユーラシア旅行社)

ビュルサの丘の中心に建つ博物館。残念ながら徹底的に破壊された古代カルタゴの展示品は限られていますが、ローマ時代の出土品は多く、さらにビザンチン時代の展示まで並び、かつてのカルタゴの栄光を今日に伝えています。

軍港・商業港

カルタゴの軍港跡(撮影:ユーラシア旅行社)

カルタゴがその名を轟かせた海軍と商船が連なっていた港。特に軍港は中の島が残されており、かつての面影を残しています。
古代カルタゴ最盛期には、城壁に囲まれた軍港は約200隻の軍船を収容し、地中海にその名を馳せたカルタゴ海軍の本拠として機能していました。

トフェ

カルタゴの聖域トフェ(撮影:ユーラシア旅行社)

軍港に近い一角にひっそりと佇む古代カルタゴの聖地。カルタゴ人の主神であったバール・アモンと女神タニトの聖域で、幼児の遺骨が発見された事から古代ローマ人がカルタゴの野蛮性の象徴として非難していた人身御供の証拠ではないかとも言われていますが、その真相は謎に包まれたままです。

タニト神のシンボルが刻まれた石碑(撮影:ユーラシア旅行社)

アントニヌスの浴場

アントニヌスの浴場(撮影:ユーラシア旅行社)

カルタゴの海岸には、古代ローマの支配下時代、五賢帝のアントニヌス・ピウス帝の時代に築かれた大浴場が佇んでいます。この浴場は、イタリア本土以外ではローマ帝国内でも最大級、イタリア本土を含めてもトップスリーに入る広大な規模で知られています。温浴、冷浴、サウナなどローマ式浴場の跡が残り、さらに遺構が地中海に迫っている為、チュニジアを代表する景勝地としても有名です。

下記動画の後半にアントニヌスの浴場が登場します。

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