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街道の女王、アッピア街道(イタリア)

2023 10/03
目次

アッピア街道とは、区間、終点を解説

アッピア街道(撮影:ユーラシア旅行社)

紀元前312年、時の執政官アッピウス・クラウディウス・カエクスによってローマからカプアまで建設されたのがアッピア街道です。主に南イタリアへの軍事的進出の為に戦車や馬車が通りやすいよう、なるべく平坦なルートをなるべく直線で通るよう建設されました。終点のカプア周辺の制圧なると、今度は南イタリアの東側(アドリア海側)へ進出する為に紀元前3世紀から2世紀にかけてカプアからベネヴェント、さらにターラントまでと段階的に街道は延長され、最終的にアドリア海の港町でバルカン半島への拠点であったブリンディシまでを結びます。

アッピア街道はローマの進撃を支え、その成功から”街道の女王”と呼ばれ、『全ての道はローマに通ず』という諺にあるようなローマの高い道路敷設技術の模範になりました。

アッピア街道のルート、総距離、始点・終点

アッピア街道のおおよそのルート

最終的なアッピア街道はローマから南イタリアのアドリア海に面した港町ブリンディシまでの総距離約560kmを結んでいました。起点はアッピウスが街道を建設した当時にローマの外壁の門であったカペーナ門(カラカラ浴場の周辺)であったと言われています。尚、カラカラ浴場はアッピア街道創設の約500年後に建設されている為、その下には初期の街道の遺構が眠っているとも言われ、現在でも発掘作業が続いています。

アッピア街道始点近くのカラカラ浴場(撮影:ユーラシア旅行社)

アッピア街道を歩く、辿る、街道沿いのみどころ10選

サンセバスティアーノ門

サンセバスティアーノ門(撮影:ユーラシア旅行社)

ローマ南部、現在も立派な姿が残るサンセバスティアーノ門。ローマ帝国の勢いに陰りが見え始めた3世紀後半、ローマの防備の為に築かれたアウレリアヌスの城壁の南側に築かれた門です。ちょうどアッピア街道が出ていた場所で元々はアッピア門(中世に現在の名称に改称)と呼ばれていました。ここからアッピア街道州立公園が始まり、街道や周囲の史跡が比較的良い保存状態で残っています。

マイルストーン

最初のマイルストーン(撮影:ユーラシア旅行社)

マイルストーンは、日本の街道でいう一里塚にあたります。古代ローママイルは、現在の距離で約1.5kmですが、より市中心部にあったカペーナ門を起点としている為、サンセバスティアーノ門から旧街道に入ってすぐの場所に現れます。尚、このマイルストーンは複製でオリジナルはミケランジェロがカンピドリオ広場の装飾に用いて現在でもそこで見られます。

アッピア街道の看板(撮影:ユーラシア旅行社)

マクセンティウスの競技場

マクセンティウスの競技場(撮影:ユーラシア旅行社)

旧街道に入ってキリスト教関連施設(ドミネ・クォ・ヴァディス教会、カタコンベ等)を通り過ぎて現れるローマらしい史跡がマクセンティウスの競技場です。マクセンティウスはローマ帝国末期にキリスト教を公認した事で知られるコンスタンティヌス帝と覇権を争った西側の皇帝。この競技場は郊外の大きな私邸の一部であったと言われています。

チェチリア・メテッラの墓

チェチリア・メテッラの墓(撮影:ユーラシア旅行社)

アッピア街道をさらに進むと現れる巨大な遺構が塔も付設した巨大な霊廟です。持ち主はカエサルの部下として活躍したクラッスス(三頭政治のクラッススの同名の息子)の妻チェチリア・メテッラです。何故身分に比してかなり巨大な規模の建築なのかは謎に包まれたままですが、当時の街道沿いの建築を今日に伝える貴重な遺構です。

クィンテッリ荘

クィンテッリ荘(撮影:ユーラシア旅行社)

チェチリア・メテッラの墓を抜けてクィンテッリ荘のあたりにくると所々に古代の石畳が残っており、古代ローマ時代のアッピア街道の趣きが感じやすい風景が広がります。クィンテッリは五賢帝時代の有力者の家筋でアッピア街道沿いに巨大な邸宅を構えてました。

アッピア街道のオリジナルの石畳(撮影:ユーラシア旅行社)

クラウディア水道橋

クラウディア水道橋(撮影:ユーラシア旅行社)

古代ローマには大人口を支える為に数多くの水道橋によって水が運び込まれていましたが、その代表的なものの一つがクラウディア水道橋でした。実物はアッピア街道からは少し離れていますが、その姿はクィンテッリ荘の奥に見つける事ができます。

ミントゥルノ

ミントゥルノ遺跡を通るアッピア街道

ローマから南東に約130kmに佇むミントゥルノはアッピア街道の中継都市として栄えた街です。アッピア街道そのものが中心通りとして街の東西を貫いており、さながら日本の宿場町のように行きかう人々で賑わっていたと考えられます。

カプア

カプアの円形闘技場(c)Dom De Felice e Carla Nunziata(CC BY 2.0)

ナポリの約30km北方に佇むカプアは、南イタリアでも最も歴史の古い都市のひとつでローマ以前から繫栄していました。ローマ勢力に加わった後も南イタリア随一の有力都市として最初のアッピア街道の終点でもありました。ローマとカルタゴが争った前3世紀末の第二次ポエニ戦争においてハンニバルとカルタゴについた為に都市の権力は解体され、さらにアッピア街道が延伸してローマの境界が地中海全体に及ぶに連れ、徐々に衰退しますが、現在でも当時の遺構が当時の栄華を静かに物語ります。

ベネヴェント

トラヤヌス帝の凱旋門(c)Following Hadrian(CC BY-SA 2.0)

カプアの東約50kmに位置するベネヴェント。元の名はマレヴェントで”悪い風”を意味していましたが、ローマ軍が前3世紀前半のピュロス戦争において戦勝後、街の名は”良い風”を意味するベネヴェントに変更されました。延伸されたアッピア街道の中継都市と栄え、非常に保存状態がいいトラヤヌス帝の凱旋門も残っています。

古代劇場(撮影:ユーラシア旅行社)

ターラント

海に浮かぶターラントの街(撮影:ユーラシア旅行社)

ブーツに見立てたイタリア半島の踵の付け根に位置するターラントはカプア同様に南イタリアでも最も古い歴史を持つ都市の一つで元々はスパルタの植民都市として形成されました。ローマが伸長して来るまでは地中海有数の港町として栄え、その後もローマ海軍の根拠地、さらには現代でもイタリア海軍の母港であるように、戦略的重要性を持ち続けています。残念ながらアッピア街道その物の痕跡は残っていませんが、古代からの軍港の様子と長い歴史を物語る出土品が展示されている考古学博物館は必見です。

ターラント考古学博物館(撮影:ユーラシア旅行社)

ブリンディシ

コロンナ・ロマーナ(撮影:ユーラシア旅行社)

アドリア海に面した港町ブリンディシはアッピア街道の終点として二千年前から栄えてきた街です。ローマの主要交通路は、ここからアドリア海を挟んで対岸のドュレスに船で渡ってギリシャ・オリエントに繋がっていました。アッピア街道の終点を飾っていた”コロンナ・ロマーナ=ローマの柱”は港を見下ろす街道の終点に立っています。(保存の為、オリジナルは近くのグラナフェ・ネルヴェーニャ宮殿で展示)

グラナフェ・ネルヴェーニャ宮殿内コロンナ・ロマーナの柱頭オリジナル(撮影:ユーラシア旅行社)
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