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インカ帝国の誕生、繁栄と滅亡

2022 3/07
目次

インカ帝国とは

インカ帝国の誕生

チチカカ湖のボリビア側に浮かぶ太陽の島(撮影:ユーラシア旅行社)

ペルーとボリビアの国境、海抜3800mに位置するチチカカ湖に浮かぶ”太陽の島”が伝説上のインカ帝国発祥地です。インカの伝説では、この島で太陽神が始祖マンコ・カパックと姉妹を想像し、世に送り出しました。チチカカ湖から北(現在のペルー)側に進んだマンコ・カパック一行が肥沃な土地に囲まれた谷間に居を定め、伝説上ではそれが現在のクスコの街の起源になっています。歴史的には、ケチュア族に属する人々が12世紀頃に、クスコを中心に帝国の礎(クスコ王国)を築きました。

インカ帝国の繁栄

インカ帝国の拡大

赤色部分:当初のクスコ王国領土
紫部分:パチャクテクが1438-1463年の間の遠征で獲得したクスコ周辺の領土
オレンジ部分:パチャクテクの息子トゥパックが1463-1471年の間に北征で獲得した現在のペルーからエクアドルに跨る領土
緑部分:トゥパックが北征の後、1471-1493年の間の南征で得た現在のボリビア西部、チリ北部、アルゼンチン北西部の領土
青部分:トゥパックの息子ワイナ・カパックが北征で得たペルー北部、エクアドル、コロンビア南部の領土

15世紀に入ると、インカは上部地図に沿ってクスコ周辺を治める地方王国から急速に拡大路線に傾き、特にパチャクテク、トゥパック父子による遠征は大きな成功を収め、インカは一躍広大な領地を得る事ができました。名実ともに帝国への道を歩み始め、この最盛期には、南米大陸を縦断するアンデス山脈の西側の大半を治めるに至りました。征服した土地には貴族階級の統治官を送り込み、皇帝を中心とした中央集権的な体制が築かれました。後述するインカ道によって広大な帝国内の物資や情報伝達も整備され、アンデスの山中にマチュピチュを始めとする壮大な都市や施設群が築かれました。

インティライミ祭のインカ皇帝(撮影:ユーラシア旅行社)
インティライミ祭にて兵や民を従えるインカ皇帝(撮影:ユーラシア旅行社)

インカ帝国の滅亡

故郷トゥルヒージョ(スペイン)に建つフランシスコ・ピサロ像

15世紀に栄華を誇ったインカ帝国も16世紀を迎えると、風向きが変わり始めました。1526年には、スペインのコンキスタドール、フランシスコ・ピサロがインカ帝国の領土に達し、地元の人が持つ黄金製品を発見した事からこれこそ黄金郷エル・ドラード、或いはそうでないとしても、金銀に満ちた国であると目を付けられました。同時に帝国内でも1529年にクスコで統治するワスカルと現エクアドルのキトで北方を治めるアタワルパが激突する内戦が勃発し、インカ帝国の国力が低下し始めました。

ピサロはスペイン王の後ろ盾を得る為に一度帰国した後、インカの内戦ぼっ発と同じ1529年にインカ帝国領に再度足を踏み入れました。約170名と寡兵ながらも最新の装備と戦術で進軍するピサロは、1532年、ペルー北部の温泉地カハマルカで療養中のアタワルパに会談を申し入れ、途中で一方的に捕縛しました。アタワルパが閉じ込められた部屋を埋めるぐらいの金銀を用意すれば解放するという条件提示が成され、実際にインカ側はピサロに条件通りの金銀を渡しました。しかしピサロはアタワルパを解放はせず、翌1533年に最終的に処刑します。一方クスコにいたワスカルも混乱の内に暗殺され、スペイン人が擁立したマンコ・インカが後継者に据えられました。

アタワルパが浸かったと言われる温泉が残るカハマルカ(撮影:ユーラシア旅行社)
ミレー『ピサロのインカ帝国征服』(ロンドン/ビクトリア&アルバート博物館所蔵)

スペイン人の傀儡として擁立されたマンコ・インカでしたが、インカ再興の為に1536年にスペイン人と戦端を開き、一時クスコを取り戻したものの、最終的にはスペイン人の追手も迫るのが困難なアンデス山中深くのビルカバンバに転進しました。

アンデス山中深くに佇むビルカバンバ(c)AgainErick(CC-BY-SA-3.0)

スペイン人も容易に攻める事が出来なかったビルカバンバでインカ帝国はなお36年間存続しましたが、ヨーロッパから持ち込まれた疫病の影響で人口が目減りし、最後1572年にスペインに征服され、インカ帝国は滅亡しました。最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑されました。

インカ帝国ゆかりの都市、遺跡

インカ帝国は明確な文字は持っていませんでしたが、建造技術は非常に高く、また広大な帝国統治に不可欠であった統治システムやインカ道のようなインフラ整備にも優れており、今日まで当時の栄光を物語る遺構や史跡が残されています。

クスコ(ペルー)

インカ時代の神殿の上に築かれたサントドミンゴ教会

インカ誕生の神話、そして史実として前身のクスコ王国時代から都として栄えたクスコは今でもアンデス地域の中心都市であり、人口40万人を越える大都市です。インカ時代の遺構は街中にも点在しており、栄華の時代に思いを馳せる事ができます。中でも写真のサントドミンゴ教会は、大地震に見舞われた時にスペイン人が築いた部分は大破してしまったものの、インカ時代に建造された部分は無傷であったという逸話も残っていて必見です。クスコの詳細は、下記記事もご覧ください。

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マチュピチュ

マチュピチュ遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

世界中の人々を魅了し続けるマチュピチュは、インカの不動のシンボルと言えるでしょう。ハイラム・ビンガムがこの遺跡を発見した後、そのあまりの壮麗な姿にここが幻の最後の都ビルカバンバと考えたのにも頷けます。(但し、上部写真にあるように、後にビルカバンバはマチュピチュよりもさらに奥の密林地帯で発見されました)
マチュピチュがいつどのような目的で建てられたのかは、現在もまだはっきりしていません。宗教施設、皇帝の別荘等様々な説がありますが、いずれにしても山の稜線と斜面にこれだけの物を作り上げたインカ帝国の建造技術と力には誰しも魅せられずにはいられません。

モライ

モライ遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

クスコの西方約50kmに位置するモライは、特徴的な円形の建築で有名です。アンデスの斜面を耕地として多用したインカ帝国のおいて重要な農業の研究施設として作られたという説が有力です。下の段から最上段まで気温差が生じる設計にもなっており、この地域以外の色々な土壌も持ち込まれていた事が分かっています。

ワイナワイナ

ワイニャワイニャ遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

マチュピチュへ延びるインカ道を歩く事でのみ訪れられる、マチュピチュの”隣町”がワイナワイナ。住居と典型的な段々畑で構成されており、聖なる谷とウルバンバ川を望み、インカ道に沿って位置している事から宗教的或いは軍事的(或いは両方)に重要性を持った都市であったと考えられています。

太陽の島(ボリビア)

インカの遺構も残るボリビア、太陽の島(撮影:ユーラシア旅行社)

インカ神話で太陽針インティがマンコ・カパックとその姉妹を創造した場所として知られる太陽の島。チチカカ湖のボリビア側にあり、面積21平方kmに及びます。現在はボリビアのコパカバーナから船で約1時間30分で訪れる事が出来ます。インカ時代には神話の聖地として、巡礼者が訪れていたと考えられています。当時の遺構も一部残されており、チチカカ湖の風景と共にインカの時代に思いを馳せる事が出来ます。

インガピルカ(エクアドル)

インガピルカ遺跡(C)Cayambe(CC-BY-SA-3.0)

エクアドルの首都キトから南に約400kmの位置に佇むインガピルカは、ペルー外に位置するインカ最大級の都市遺跡です。インカと友好的関係を結んだ地元のカナリ族に一定の自治を与えつつ、ここを拠点にインカの軍はエクアドル北部からコロンビア南部に勢力を伸ばしました。上部写真の奥に映る丸い建造物は、太陽神インティに捧げた神殿跡とされています。

インカ古道カパック・ニャン

インカ古道(撮影:ユーラシア旅行社)

南北に長く、アンデスに抱かれた山間地帯に広がるインカ帝国が広大な領土を維持する為には、交通網の整備は不可欠でした。そうして整えられたインカ道は、主要都市を効率的に結び、日本でいう飛脚や宿場のような制度も生まれ、その総延長は地球一周を越える6万キロにも及んだとも言われています。その多くが山間にあって保全が難しく、消失も進んでいますが、聖なる谷からマチュピチュに至るインカ道トレッキングは人気が高く、マチュピチュ遺跡から太陽の門までインカ道歩き体験を楽しむ事も出来ます。

インティプンクとマチュピチュを結ぶインカ道(左の道)(撮影:ユーラシア旅行社)

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