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革命家チェ・ゲバラゆかりの地を辿る(キューバ)

2022 3/07
目次

チェ・ゲバラとは

キューバでは至る所にチェ・ゲバラの顔を見かける/ハバナ旧市街にて(撮影:ユーラシア旅行社)

キューバ革命の英雄であり、貧しい人々を救うために生涯戦い続けた革命家チェ・ゲバラ(1928年6月14日 – 1967年10月9日)。フランスの哲学者サルトルに「20世紀で最も完璧な人間」と称され、彼の功績やカリスマ性、人間性は今も尚世界中から愛され人気を博しています。本名は、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。チェは愛称で、スペイン語のアルゼンチン方言で、「やぁ」等といった砕けた挨拶の言葉です。

ゲバラは、アルゼンチンの裕福な家庭に生まれ、持病を持ちながらも熱心に勉強し医師になりました。若き青年時代、友人と南米に放浪の旅をすることとなり、ラテンアメリカの貧富の差、アメリカ資本による搾取や独裁政権など市民を苦しめている現実に直面し、ゲバラは自由の為に戦う事を決意します。メキシコにて亡命していたキューバ人のフィデル・カストロと出会い、キューバ独裁政権の反乱軍に加わって、共に戦うことになります。数々の苦難に遭いますが、負傷した敵兵や村人の治療を施したり、兵士に勉強を教えたりするゲバラの姿に人々は惹きつけられ、支持するようになります。キューバ革命成功後、キューバ市民権が与えられ要人として迎えられますが、アフリカのコンゴや東欧諸国など革命支援をしながら転々とします。最後はボリビアで政府軍に捉えられ処刑されてしまいますが、敵兵も銃の引き金を躊躇ったと言われています。

キューバへの行き方、アクセス

日本からのキューバ・ハバナまでの直行便はないため、アエロメヒコ航空でメキシコのメキシコ・シティかカンクンを経由、又は、エア・カナダでカナダのトロントを経由するフライトが一般的です。所要時間は、乗り継ぎ時間も含めると片道約18~20時間です。

チェ・ゲバラゆかりのおすすめスポット

グランマ号上陸記念公園

展示されているグランマ号のレプリカ(撮影:ユーラシア旅行社)
グランマ号の上陸地点にある記念碑(撮影:ユーラシア旅行社)

1999年に世界自然遺産に登録された自然公園です。キューバにそびえるシエラ・マエストロ山脈の西部にあり、珍しい地形で固有の種が多く生息しています。1956年、メキシコからキューバへ移動する為に、フィデル・カストロやゲバラら82名が乗船した船「グランマ号」が到着した場所でもあります。展示室には、「グランマ号」の航海ルートの地図や革命戦士たちの所持品などが展示されています。

グランヒータ・シボネイ(サンティアゴ・デ・クーバ)

グランヒータ・シボネイ(撮影:ユーラシア旅行社)

サンティアゴ・デ・クーバの郊外にあり、1953年にカストロの反乱軍がモンカダ兵営襲撃の前に集結し、計画を練った革命戦士たちの隠れ家です。表向きは養鶏場の名目で借り、軍服を隠していた天井裏、女性革命戦士の部屋、武器を隠した井戸など残っています。現在は博物館として公開され、襲撃に使用したライフルやカストロたちの逃走経路を印した模型などが展示されています。

7月26日モンカダ兵営博物館(サンティアゴ・デ・クーバ)

銃弾跡が残る7月26日モンカダ兵営博物館(撮影:ユーラシア旅行社)

1953年7月26日、カストロたちは親米のバチスタ政権の兵舎に奇襲をかけ武器を奪い、ラジオで国民に蜂起を呼びかける予定が、敵兵に見つかり無残にも失敗し、カストロは山中に逃げ生き延びましたが、約半数の青年が捕まり処刑されてしまいました。その後、カストロは「7月26日運動」というゲリラ組織を結成し、ゲバラも加わりキューバ革命を成功させることになります。現在この場所は博物館兼学校となっています。

装甲列車襲撃記念碑(サンタクララ)

当時の爆撃をイメージしたようなモニュメントがある装甲列車襲撃記念碑(撮影:ユーラシア旅行社)

1958年12月30日バチスタ政府軍を乗せた列車をゲバラ率いるゲリラ軍が襲撃しました。列車を脱線させ爆破、政府軍の武器を奪い崩壊させるきっかけとなった事件です。同時にサンタクララ陥落、解放へと向かわせます。装甲列車を襲撃した場所に記念碑が建てられ、当時の列車の車両や事件に関連するものが展示されています。

チェ・ゲバラ記念霊廟(サンタクララ)

6mを越えるチェ・ゲバラの銅像(撮影:ユーラシア旅行社)

チェ・ゲバラが、ボリビアで銃殺され30年経ってから1998年に遺骨が発見され、キューバへと運ばれました。サンタクララの霊廟で共に戦った勇士と眠っています。記念館にはゲバラの子どもの頃の写真や学校の通知表、本人が使用した軍服、パスポートのコピーや手帖の複写など様々な物が展示されています。屋外の革命広場には、外国人が使う兌換ペソの3CUCの絵柄にもなっているゲバラの銅像があります。足元には、彼の名言である「Hasta la Victoria Siempre」(勝利に向かって、常に)と刻まれています。

カバーニャ要塞(ハバナ)

ゲバラの執務室が当時のまま残されている/カバーニャ要塞(撮影:ユーラシア旅行社)

ハバナ防衛のために建てられた要塞で、他にもモロ要塞、フエサル要塞、プンタ要塞と合わせて世界遺産に登録されています。カバーニャ要塞は、モロ要塞が英国に占領された際に建造されたラテンアメリカの最大の要塞です。モロ要塞の4倍の大きさを誇ります。敷地内にゲバラが執務室を構えていたこともありました。現在も18世紀の大砲が並んでいます。

第一ゲバラ邸宅(ハバナ)

壁にはチェ・ゲバラのサイン/第一ゲバラ邸宅(撮影:ユーラシア旅行社)
ゲバラが使っていた書斎/第一ゲバラ邸宅(撮影:ユーラシア旅行社)

ゲバラファンにも人気の観光地、ゲバラ邸。バチスタ政権時代にはバチスタ兄弟が住んでいた家ですが、キューバ革命後ゲバラが半年間住んでいました。当時の所持品や寝室なども見ることが出来ます。ゲバラがボリビアで殺されてから30年後、遺骨をキューバへ運ぶために使用した木の箱も展示されています。(※展示品は変更になる可能性があります)

革命広場(ハバナ)

チェ・ゲバラの肖像がある内務省/革命広場(撮影:ユーラシア旅行社)

正式名称は、ホセマルティ革命広場。ハバナ新市街の中心部にある広場で、周りには防衛省、経済改革省、国立図書館など政府の重要な建物があります。ハバナで最も有名でよく写真などにも使用されている内務省のチェ・ゲバラの肖像。ゲバラの下にはスペイン語で「永遠の勝利まで」と書かれています。郵政省には、ゲバラやカストロと共に戦ったカミーロの肖像が描かれています。

番外編「チェ・ゲバラ終焉の地(ボリビア)」

イゲラ村にたてられたゲバラの胸像/ボリビア(撮影:ユーラシア旅行社)

キューバ革命成功後、ゲバラはキューバを離れアフリカ、南米大陸で革命支援を行います。そして、ボリビアで最後の日を迎えます。アンデスの奥地にチューロ渓谷があり、そこでゲバラ率いるゲリラ兵はアメリカのCIAに捕らえられてしまいます。現在人口100人の小さな村のイゲラ村の小学校(現在は博物館)に臨時でゲバラ達が捕虜として収容されました。収容された翌日、ゲバラは銃殺され39年5ヵ月の波乱で、多くの人々の希望となった人生を終えました。この場所には、ゲバラの胸像が建てられています。銃殺されたゲバラは、ヘリコプターにくくりつけられ、セニョールマルタ病院(ボリビア・バジェグランデ)に運ばれ遺体が公開されました。中には洗濯場と呼ばれる台がありゲバラの遺体が置かれ遺体防腐措置や洗浄がされました。遺体の両手は切り落とされキューバに送った後、30年の間ゲバラの遺体は隠されていましたが、遺体捜索によりゲバラの遺骨が発見され、その場所にはゲリラ戦士たちの墓地が建てられました。ゲリラ博物館も近くにありゲバラの生い立ち、南米旅行の記録、キューバやボリビア時代の写真も展示されています。

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