ロンギヌスの槍(聖槍)とは
ロンギヌスの槍(聖槍)とは、キリストの磔刑時にその死を確認する為にロンギヌスという兵士がキリストの脇腹を刺した槍を指します。キリストの血が付いた槍は救世主の力を宿した聖遺物として信仰の対象になり、さらに後の時代(10世紀頃)にロンギヌス自身がキリストの血の力で盲目が癒え、その後殉教した聖人として信仰の対象に加わっていきます。
各地に点在するロンギヌスの槍
他の聖遺物同様にロンギヌスの槍にも色々な伝説があり、その中でも特に有名な4箇所のロンギヌスの槍をご紹介します。
ヴァチカン(サンピエトロ寺院)のロンギヌスの槍
現在ヴァチカンのサンピエトロ寺院で保管されている「ロンギヌスの槍」は、最重要聖遺物の一つとしてエルサレムで保管され、後にビザンチン帝国の都コンスタンティノープルに移された物です。その中途で分解されて一部フランスにも移されたとされていますが、その部分はフランス革命の混乱の内に消えました。
コンスタンティノープルがオスマントルコの前に陥落した後に、ロンギヌスの槍はオスマントルコの手に渡りました。1492年、オスマントルコのスルタンであったバヤズィト2世は、政敵であった弟の抑えてもらう引き換えにロンギヌスの槍を時の教皇インノケンティウス8世に送りました。それ以降非公開のままで保管され、今日に至ります。
ロンギヌス自身の絵や彫刻が教会に飾られる事はほとんどありませんが、槍が贈られた故か、ヴァチカンにはバロックの巨匠ベルニーニによる立派なロンギヌス像がサンピエトロ寺院の中心部に堂々と立っており、さらには槍を贈られたインノケンティウス8世の墓碑に槍を持つ教皇の姿が刻まれています。カトリックの総本山だけあってサンピエトロ寺院には様々な聖遺物がありますが、日頃あまり注目される事がないロンギヌスの槍が寺院の中で重要な位置を占めている事はあまり知られていません。
ウィーン(ホフブルグ宮殿)のロンギヌスの槍
ウィーンにある「ロンギヌスの槍」ほど数奇な運命を辿ってきた聖遺物はないかもしれません。
この槍が初めて歴史の表舞台に登場するのが10世紀、当時の神聖ローマ帝国皇帝オットー一世の手に渡ったとされています。当初はロンギヌスの槍ではなく、他の聖人のものとされていましたが、13世紀頃には主を刺したロンギヌスの槍として扱われるようになり、ニュルンベルク(ドイツ)で大切に保管されていました。その後ナポレオン戦争時にウィーンに移されましたが、20世紀に入ってその槍に魅せられたヒトラーがドイツへ持ち帰り、槍の力を得たと誇示した事で知られています。
現在はウィーンに戻され、ホフブルク宮殿の宝物庫で公開されています。尚、科学的調査によってキリストの時代よりもかなり後の7世紀頃の製造という事が判明しています。
アルメニア(エチミアジン大聖堂)のロンギヌスの槍
アルメニアは世界で初めてキリスト教を公認した国家であり、公認以前の初期キリスト教時代においても重要な場所の一つでした。キリストの12使徒の一人であったタダイ(裏切者でない方のユダ)がアルメニアに槍を持ち込み、山間の修道院に隠したとされています。アルメニアには古い歴史を持つゲハルト(槍のという意味)修道院が実在しており、そこで数百年間隠されていたそうです。
その後、アルメニア使徒教会の中心であったエチミアジンに移動され、今日まで大聖堂の宝物庫にて大切に保管され続けています。
尚、エチミアジンの「ロンギヌスの槍」は科学的調査によってキリストの時代の物であるという結果が出ています。また、形状はヴァチカンのインノケンティウス8世が手に持っている穂先とほぼ同様の形をしています。
アンティオキア(現トルコ)のロンギヌスの槍
古代ローマ時代においてはローマ、アレキサンドリアと並ぶ三大都市の一つであったアンティオキアはパウロが布教の拠点の一つとし、初期キリスト教にとっては重要な拠点でした。
1098年、第一回十字軍がアンティオキアでイスラム教勢力と戦っている時にピーター・バルトロメウが夢の予言によって教会の下を掘り、ロンギヌスの槍を発見したと言われています。この発見によって勢いを得た十字軍はその直後にイスラム教勢力との戦いに勝ち、バルトロメウはさらに多くの予言を口にするようになったと言われています。しかし当初よりこの槍の正当性に懐疑的な人も多く、バルトロメウは裁判にかけられて失意の内に一生を終えたと言われています。尚、この槍はその後の歴史には一切登場していません。
おまけ:『新世紀エヴァンゲリオン』におけるロンギヌスの槍
大人気アニメとして知られる『新世紀エヴァンゲリオン』の中で「ロンギヌスの槍」という武器が登場します。武器としての性能が非常に高いだけでなく、物語の運命を左右する重要な位置を占めています。(2023年10月には宇部市のときわ公園に出現しました。)