関ヶ原の戦いとは
天下分け目の戦いと称される関ケ原の戦い。1600年(慶長5年)9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成(総大将は毛利輝元)率いる西軍が関ケ原にて激闘を繰り広げました。午前8時頃に始まった戦いは、午前11時頃には西軍が善戦をしていましたが、のちに西軍内で東軍へ寝返る部隊が続出、そのなかでも小早川秀秋の寝返りにより西軍は大きく崩れ、多くの敗走者がでて、西軍を率いていた石田三成も最終的に敗走。午後2時(14時)頃には東軍の勝利という決着にて終わりました。この戦いにより、1603年(慶長8年)2月に征夷大将軍に任命された家康は、江戸幕府を開き、約260年という長きにわたる江戸時代が始まりました。
豊臣政権下には、政務を実質的に執っていた五奉行(筆頭:浅野長政、石田三成・名束正家・増田長盛・前田玄以=秀吉直属の家臣)と政務の顧問役である五大老(筆頭:徳川家康、前田利家・上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家=有力大名)がいましたが、1598年に豊臣秀吉が亡くなると、家康による独断の行為がしばしば行われ、五奉行の非難をかうようになります。さらに、秀吉存命中から〔武断派&徳川家康〕と〔文治派&石田三成〕との対立があり、その仲裁をしていた五大老のひとり前田利家が亡くなると両者の関係、さらには五大老内部でも悪化の一途を辿っていきました。
関ケ原の戦いに至る前の、1600年6月に徳川家康が会津攻めに出陣(徳川家康VS上杉景勝と直江兼続)した隙に、7月石田三成が家康討伐のため挙兵を決め、伏見城を攻撃し、13日後に陥落。石田三成の挙兵の知らせを受けた家康は、上杉家(上杉景勝)との戦いを東北の伊達家(伊達政宗)と最上家(最上義光)に託し、石田三成討伐のための準備にとりかかりました。8月16日から9月14日までの間、西上する東軍と迎え撃つ西軍との戦いが岐阜城、大垣城など各地で繰り広げられ、そして9月15日に関ケ原の戦いが始まりました。
関ヶ原への行き方
関ケ原の合戦があった場所は、現在の岐阜県不破郡関ケ原町。岐阜県の大垣と琵琶湖東岸の長浜とのちょうど中間に位置しています。最寄り駅は、「JR関ケ原駅」。
電車の場合:JR名古屋駅からは、新快速利用で、約50分(乗換えなし)。
JR京都駅からは、米原駅で乗継ぎが必要となります。快速電車を利用した場合は約1時間35分(乗継ぎ時間込み)、新幹線利用(米原駅で普通列車乗換え)の場合は、約1時間で関ケ原駅に到着します。
車の場合:名古屋市内からは、名神高速道路(西宮線)を利用して、約45分。京都からは、名神高速道路(西宮線)を利用して、約1時間25分。
関ケ原古戦場の巡り方(JR関ヶ原駅起点)
関ケ原駅から徒歩で行ける古戦場の見どころは、滞在時間によって限られてきます。また、すべての合戦ゆかりの場所を巡る場合は、徒歩では1日かけても難しく、大谷吉継陣跡や松尾山・小早川秀秋陣跡など特定の武将ゆかりの場所も山間部にあるため、徒歩で巡るには時間がかかったり、脚力が必要な場所もあります。電車で関ケ原を訪れ、関ヶ原古戦場を巡る場合、関ケ原駅前にある観光交流館にてレンタサイクル(有料)を借りるか、徒歩で行ける範囲を巡るかになります。関ケ原駅から西軍武将ゆかりの地を全て巡るだけでも、約12km(徒歩の場合、約3時間~。関ケ原古戦場記念館の見学除く)の行程となります。
駅前にある関ヶ原観光交流館には、コインロッカーがありますので、ここで観光に不要な荷物などを預けていくこともできます。(家紋に兵力付!)
関ヶ原古戦場の見所7選
関ケ原合戦場を、JR関ケ原駅を起点とし、関ケ原古戦場記念館(約1時間滞在)と合戦場の見どころ(約2時間)を徒歩・約3時間(余裕を持たせる場合は4時間)のモデルコースでご紹介します。
<JR関ケ原駅~(東首塚・井伊直政、松平忠吉陣跡)~関ケ原古戦場記念館~徳川家康最後の陣地跡・床几場~決戦地~笹尾山・石田三成陣跡、島左近陣跡~開戦地・小西行長陣跡~島津義弘陣跡~(関ケ原古戦場記念館)~東首塚・井伊直政、松平忠吉陣跡~JR関ケ原駅まで>
関ヶ原古戦場記念館
JR関ケ原駅から徒歩・約10分で到着する関ケ原古戦場記念館。関ケ原古戦場巡りを始める前に、まずはここで関ケ原の戦いについて学んでいくことをお勧めします。関ケ原古戦場記念館は、事前予約制(公式サイトからネット予約または電話予約)になり、入場時間が決められています。
予約時間になり、入場するとまずは1階の映像鑑賞となり、グラウンドビジョン(約8分)、続いてシアター上映(約9分)を見ていくことになります。入場時間になってからグラウンドビジョン開始までも、状況によって10分ほど待機することがありますので、1階の鑑賞に約30分要するとみておきましょう。このグラウンドビジョンとシアターの非常に分かり易い映像と解説によって関ヶ原の戦いについてを学ぶことができます。また臨場感溢れる迫力ある映像で、関ケ原の戦いにタイムスリップしたような感覚になり、関ヶ原の戦いをよく知らない人も一気に関心を持つことができるでしょう。
1階の鑑賞が終わった後は、2階の常設展へと移動します。2階は、主に関ケ原の戦いにおいての主要武将たちの甲冑、刀剣の変遷、鉄砲衆などの展示、その奥に体験コーナーがあります。体験コーナーでは、打刀と脇差、火縄銃、大筒を実際に持って重さを体験できます。重たい武器を持っての戦いがいかに大変だったかを実感することができるので、是非持ってみましょう。
※1階の映像、2階の展示室は、撮影禁止エリアになります。
そして、2階の常設展からエレベータで、5階展望所へ(3,4階に展示はありません)。展望所からは、関ケ原合戦場を一望でき、案内ボードによって各武将の陣地の場所を確認することができます。ここの階では、撮影が可能です。
徳川家康最後の陣地跡・床几場
関ケ原古戦場記念館のすぐ横(西側)に、徳川家康最後の陣地跡があります。最後の陣地というのは、合戦が始まったとき、家康は開戦地や決戦地から東に約3km離れた桃配山に陣を構えていました。しかし、戦況が西軍の善戦となると、東軍を鼓舞するために主戦場近くまで移動し、指揮しました。関ケ原の戦いが終わった後、床几場(しょうぎば)という土塁で囲った中央に一段高くなった土壇を配し、その上で床几という折り畳み式の腰掛に家康が腰かけ、配下の武士が討ちとった敵方の首級で褒賞を決める首実検が行われました。
決戦地
東軍が西軍の中心である石田三成の陣の近くまで迫った激戦地跡に、「決戦地」と称された碑が建っています。徳川家康最後の陣地跡から北西、徒歩10分ほどの場所にあります。
石田三成の陣跡(笹尾山)と島左近陣跡
関ケ原の合戦場を巡る際に、絶対に外せないのは笹尾山の石田三成陣跡!
石田三成の陣前(笹尾山の麓)に、石田三成の重臣であり軍師としても名高い島左近の陣跡があります。現在、笹尾山の麓には駐車場が設けられ、山の斜面には当時の様子を伺わせる馬防柵が設置されています。
駐車場から約7~10分ほど階段をあがると、関ケ原を一望できる三成陣地跡に到着。設置されている展望所には、関ヶ原の武将布陣マップがあり、音声によって関ケ原の戦いの解説を聞くことができます。もし、関ケ原古戦場記念館を訪れる時間がなかった場合には、ここでの分かり易い音声解説で関ケ原の戦いについて知ることができます。また関ケ原を一望しながら、解説を聞くことで、目の前に広がる関ケ原で激戦が繰り広げられた様子が目に浮かんでくる感覚にもなり、お勧めです。
開戦地
午前8時ごろ、東軍の松平忠吉・井伊直政による南天満山に布陣していた西軍・宇喜多秀家に向かって、発砲したことより関ケ原の戦いが始まりました。
開戦地のすぐ近くに、西軍の小西行長の陣跡もあります。この開戦地近くには、乗用車が停められる駐車スペースがあります。
島津義弘陣跡
西軍についていた島津義弘ですが、関ケ原の戦いが始まってから積極的に動くことなく、石田三成の陣前にいた島左近が銃弾により負傷し、戦況が悪化するなか、石田三成が島津義弘に救援を頼むも、動くことはありませんでした。そうして最後まで積極的に戦いに参加しないままだった島津隊は、合戦が終了すると、なんと敵である東軍のなかを突っ切り敗走。東軍の攻撃を振り切り逃げ切った敗走は、のちに「島津の退き口」と語られるようになりました。
東首塚と松平忠吉・井伊直政陣跡
JR関ケ原駅から、関ケ原古戦場記念館へ向かう途中に、東首塚があります。首実検が行われた後、諸将の首を丁重に埋葬した場所のひとつ。この東首塚の隣には、関ヶ原の戦いの開始となる発砲を始めた東軍・松平忠吉・井伊直政陣跡があります。
関ケ原を巡る際のプチポイント
JR関ケ原駅から関ケ原古戦場記念館へ向かって歩く線路沿いには、関ヶ原の戦いについての説明ボードがずらりと並んでいます。西軍の武将についてや戦いの概要も記載されていますので、ここを見るだけでも関ケ原の戦いについての概要を知ることができます。
徒歩で関ケ原の戦いゆかりの場所を巡る際、道中にさまざまな関ケ原気分を盛り上げるポイントがあります。そのような関ケ原のさまざまなプチポイントを見つけながら歩いていくと、徒歩観光がとても楽しくなります。このような関ケ原の町全体で関ケ原を盛り上げるポイントを用意してくれているのはとても嬉しいですね♪