ドメネク・イ・モンタネールとは、その生涯
ドメネクは1850年、バルセロナの裕福な家庭に生まれ、建築家を志してマドリッドで学び、地元バルセロナに戻って創作活動を開始しました。瞬く間にその腕を認められ、25歳にしてバルセロナ建築学校の教授に抜粋され、以後新しい波が誕生しようとしていたバルセロナの建築界をリードしていく事になります。その建築学校に入学し、ドメネクに学んだのが若き日のアントニ・ガウディでした。
19世紀末はヨーロッパの建築界にアール・ヌーヴォーが大流行していました。ドメネクはその流れを汲みつつ、地元スペインで中世以来息づいてきたイスラム建築様式(ムデハル様式)も取り入れて独自のモデルニスモ様式(運動)を主導していきます。ドメネクの元には多くの依頼が舞い込み、売れっ子建築家として数多くの作品を残していきました。ガウディも台頭しますが、存命中はドメネクが揺るぎなくバルセロナの建築界をリードし、教え子からライバルに上り詰めたガウディとの仲もあまりよくはなかったようです。
ドメネクはカタルーニャを代表する名士の一人として政治活動にも関わりました。カタルーニャの自治運動の中心人物の一人として活躍しますが、晩年は政界から身を引いて建築に専念します。不遇に見舞われた事もあったガウディとは異なり、常に第一線で活躍し続け、常に栄光とともに73年の生涯を送りました。死後はライバルのガウディの方が名声を轟かせましたが、ドメネクの評価も依然高く、1997年には代表作であるサン・パウ病院とカタルーニャ音楽堂が世界遺産に登録されました。
ドメネク・イ・モンタネールの二大作品
ドメネクは数多くの作品を手がけましたが、戦争や老化などで失われた物も少なくありません。ただ、代表作と呼ばれるサン・パウ病院とカタルーニャ音楽堂は世界遺産にも登録され、適切に保護されてドメネクが彩ったモデルニスモの華を今日に伝えています。
サン・パウ病院
元々15世紀初頭から6つの小さな病院が建っていたバルセロナの一角に1901年大病院建設プロジェクトが始まり、ドメネクがその指揮を執る事になりました。14万平方メートル(東京ドーム約3個分)を越える広大な敷地にパビリオンと呼ばれる12の建物が配置され、それぞれが地下で繋がっています。1997年に世界遺産に登録された後も2009年まで現役の病院として使われ続けました。(現在は隣接地区に病院機能が移されました)
まず目を引くのがドメネクらしい壮麗なファサードです。まるでアミューズメントパークのような様相ですが、そこには患者さんの気持ちを楽しくさせたいというドメネクの思いが込められています。
かつて病棟だった部屋ですが、こちらにも明るいドメネクらしい内部装飾が施されており、明るい病院というコンセプトが感じられます。
ドメネクの建築は、患者も看護師もなるべく快適に過ごせるよう採光や換気にも配慮しており、内部見学でも随所にその跡が見られます。
カタルーニャ音楽堂
サン・パウ病院と並ぶドメネクの代表作であるカタルーニャ音楽堂は、1905年に着工されました。広大な病院と違って旧市街の限られたスペースで建設せざるを得なかった為、外から全容が見えにくいです。但し、スペースが少ない為に建設自体は早く1908年には完成しました。主に地元の合唱団の活動の為に使われ、時にはその名の通りカタルーニャ独立・自治運動の活動の場としても利用されました。
ファサード部分には、赤茶を背景に、ドメネクらしい草花模様と丸みを帯びた華美な装飾が並んでいます。
玄関に入ると、音楽堂のシンボルの一つであるステングラスやランプが並んでおり、クラシックなヨーロッパの劇場とも異なるモデルニスモらしい印象を与えてくれます。
そしてホール内部は圧巻です。大窓が並び、そこに鮮やかなステンドグラスが施されており、天井部分と合わせて自然光によってホール内を調光しています。2100人の観客を収容でき、現在も多くのコンサートが催されています。
日の光によってホール内の色合いが変わる為、”ドメネクの魔法の音楽箱”とも呼ばれたりします。コンサートがない日も見学する事が可能なので、中に入ってドメネクが創出した世界に酔いしれる事ができます。