熊野古道とは
熊野とは、紀伊半島南部(和歌山県南部~三重県南部)の地域を指し、ここには、かつて熊野国があったことが地名の由来。「熊野三山」と呼ばれる主要な三つの神社(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)が和歌山県南部にあり、その熊野三山へお参りするための道を熊野古道といいます。
古代から中世にかけ、熊野三山の信仰が高まり、身分を問わず、多くの人々が熊野を参詣しました。その光景は、「蟻の熊野詣」と例えられるほど、多くの人々が切れ目なく熊野に参詣したと伝えられています。
中辺路とは
熊野三山に至る熊野参詣道のうち、紀伊半島西部の田辺から熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社に至る山岳路が「中辺路」(なかへち)です。熊野三山に至る熊野参詣道のうち、中辺路は熊野古道の中でも公式参詣道として歴史を刻んで来ました。平安時代から鎌倉時代にかけて、皇族貴族が延べ100回以上も繰り返した「熊野御幸(くまのごこう)」もこの道を使用してきました。中でも、後白河上皇は歴代最多の9回も熊野御幸を行っています。
中辺路はどこ?
中辺路のスタート地点は、和歌山県田辺市にあり、最寄り駅はJR紀伊本線・紀伊田辺駅です(注意:大阪メトロに田辺駅がありますので、そこと間違えないように)。
電車の場合:大阪(天王寺駅)からJRの特急利用で、約2時間。京都から新大阪に移動し、特急に乗り換え、約3時間10分。
車の場合:大阪から阪神高速を経由して、約2時間。京都から第二京阪道路と阪和自動車道を経由して、約2時間40分。
高速バスでは、JR大阪駅から白浜エクスプレス大阪号で、約3時間5分。
「中辺路のスタート地点は、和歌山県田辺市」と記載しましたが、紀伊田辺駅~熊野本宮大社までの距離は、約65km、1日で歩ききれません。歩行のスタート地点は日帰りなのか、宿泊するのか、どこを目標に歩くのかで異なることになります。あらかじめ歩行ルートやスタート地点などは決めてから訪問することをおすすめします。
【日帰りハイキング・目安としてのお勧め2コース】
下記、いずれのスタート地点までは紀伊田辺駅からバスで移動。
1)発心門王子~熊野本宮大社(約7㎞/約2時間 おおむね平坦+なだらかな下り)・・・最寄りバス停「発心門王子」
2)伏拝王子~熊野本宮大社(約3.3km/約1時間 なだらかな下り)・・・最寄りバス停「道の駅奥熊野」
*バスの本数は、おおむね2時間に1本と本数が少ないので、事前に調べていくことをおすすめします。
中辺路のみどころ 5選
那智の滝
那智の滝は、日本三大瀑布に数えられる、日本を代表する滝の一つ。落差は133mで直瀑としては日本一の高さを誇り、水量も日本一の名瀑です。滝自体がご神体として太古より崇められており、熊野三山とともに見逃せない場所です。
川の古道体験
上皇や貴族たちが熊野本宮大社をお参りした後、熊野速玉大社へ向かうために利用したのが川の参詣道。現代でもそのルートの約半分、清流熊野川を木舟でゆったり、語り部の案内を聞きながら両岸の景色を眺め、古に想いを馳せる貴重な体験です。(乗船約1.5時間)
熊野本宮大社
全国に4700社以上ある熊野神社の総本宮。その歴史は古く、既に平安時代から熊野信仰が高まり始め、貴族や上流階級が熊野古道を通って参詣していました。室町時代に入ると、一般市民にもその波が広がり、熊野三山の中で最も奥に位置している熊野本宮大社を目指しました。現在見られる社殿は19世紀初頭に建立され、主神家都美御子大神を祀っています。
熊野速玉大社
内陸に水源をもち、新宮市の北を通り熊野灘へ流れる熊野川。この熊野川を内陸に約3km遡った場所に熊野速玉大社があります。その名は、黄泉の国から戻る途中にイザナギノミコトが生み出した速玉神が由来と言われています。丹塗りの社殿は色も鮮やかです。境内には、樹齢千年を越えると言われるご神木「梛(なぎ)」の木が今日も熊野詣の参詣者たちを温かく見守り続けています。
熊野那智大社
熊野那智大社は、夫須美神(ふすみのかみ)を御主神とする神社です。熊野牟須美(夫須美)大神(くまのふすみのおおかみ)とは、イザナギノミコトの別名。牟須美(夫須美)大神は、「結神」(ムスヒノカミ)とも言われ、“ムス”は万物の生成・育成、“ヒ”は目に見えない存在を意味します。そのため農業や漁業の守護神であり、縁結びの御利益があることで時代を越えて信仰され続けています。この神社では、八咫烏(やたがらす)が祀られています。八咫烏は古くから交通・水運の守り神、導きの神として信仰されています。
八咫烏とは
日向(現在の宮崎)から瀬戸内、難波、吉野、そして大和(奈良盆地の東南)を征服し、初代天皇となったのが神武天皇。神武とは亡くなった後につけられる諡号で、生前の名前は神日本磐余彦(かんやまといわれひこ)。この東征をする際に、道案内をしたのが神様の使いであった八咫烏。無事に道案内を終わらせた八咫烏は、熊野に戻り石となりました。その石化した八咫烏が、熊野那智大社に祀られています。
日本のサッカー普及に貢献した中村覚之助氏は、日本各地の学校に行き、サッカー指導を行い、日本で最初のサッカーチームを創設、日本初の対外試合を組むなど活躍しましたが、29歳という若さで亡くなります。中村氏の活躍と出身地が那智勝浦町だったということ、勝利に導く神様であることなどから、日本サッカー協会のシンボルマークが八咫烏になりました。