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東洋のマチュピチュ、産業遺産の別子銅山(愛媛県)

2021 7/19
目次

別子銅山とは

東平地区貯蔵庫上空(一社)愛媛県観光物産協会提供

中国・四国地方に広がる瀬戸内工業地域の一角を形成する愛媛県新居浜市、この市の背後に悠然とたたずむのが別子銅山です。まだ海底にあった時分に海底火山活動により銅を含んだ鉱床が形成され、その鉱脈は国内最大規模と言われ、諸説ありますが、足尾銅山(栃木県)、小坂銅山(秋田県)とともに日本三大銅山に数えられます。
江戸時代から昭和まで283年に渡り日本のみならず世界有数の銅山としてその名を轟かせ、日本の産業の近代化に貢献したとして2007年経済産業省より近代化産業遺産に認定されました。

別子銅山への行き方、アクセス

●新居浜までの行き方、アクセス
車:岡山ICから約1時間40分で新居浜ICに到着します。
鉄道:東京からの場合、東海道・山陽新幹線にて岡山駅へ行き、特急しおかぜに乗り換え新居浜へ向かいます。(東京~岡山間 約3時間半、岡山~新居浜間 約1時間半)
●新居浜から各観光地へのアクセス
東平:新居浜駅もしくは新居浜ICより車で40分。またはマイントピア別子発の観光バスをご利用ください。
マイントピア別子:新居浜駅からバスで20分、もしくは車で20分
別子銅山記念館:新居浜駅から車で10分、または新居浜ICから車で5分
広瀬歴史記念館:新居浜駅からバスで20分。または新居浜駅もしくは新居浜ICから車で15分。
日暮別邸記念館:新居浜駅から車で10分、または新居浜ICから車で20分

別子銅山の歴史

日本の鉱山

15世紀末の戦国時代、軍事力強化のため、貿易・鉱山などの産業に力を入れ始めました。また、ちょうどそのころ、ヨーロッパでは大航海時代となり、ヨーロッパの国々は日本の豊富な鉱物に目をつけ、日本の金、銀、銅などを交易に用いて利益を上げていきました。
それに伴い15世紀~17世紀にかけては銀山が盛んに開発されましたが、江戸幕府が開かれる頃には衰退しはじめ、代わりに注目されたのが銅山です。

開山~近代化~工業都市としての発展

標高747mの第三通洞、東平抗口(一社)愛媛県観光物産協会提供

1660年代頃から銅の大増産が始まり、続々と銅山が開山していきました。別子銅山は1690年、標高1,000mにあった別子山村にて鉱脈の一部が地表に現れているのを発見され、翌年の1691年に住友(別子は旧住友財閥の出発点)により開山し、開山から5年経つと鉱山の作業員を中心に3000人からなる鉱山町が形成されるようになりました。
明治時代になると殖産興業を進める明治政府に従い、別子銅山も外国人技師を招き、1876年から大胆な改革を始めました。具体的には、それまで人力だった採掘に火薬やダイナマイトを導入、また、鉱石搬出も蒸気機関を利用した巻き上げ機で効率的に搬出可能になり、1893年には鉄道も整備され、別子銅山は急速に近代化を成し遂げました。
開山当初は山頂付近から採掘していましたが、鉱脈が枯れてくるごとに下へ下へと抗口を設けるようになり、鉱山町は徐々に新居浜に近づいていきました。そのため鉱山業から派生した機械工業や化学工業、林業などの拠点として様々な施設が新居浜に築かれ、その結果、瀬戸内海でも有数の工業都市として栄え、現在でも工業都市として機能しています。

煙害とその対策

徐々に坑道が新居浜に近づくにつれ問題視され始めたのは、製錬所から排出された有毒煙による田畑への影響(煙害)です。1893年、付近の村々は愛媛県に被害を訴えましたが、煙害とは認められませんでした。しかし、別子銅山の所有者である住友は煙害を認め、別子山の自然を取り戻すことを誓いました。
煙害対策として、新居浜沖にある4つの無人島、四阪島に製錬所を移すことに決めすぐに建設を始めます。そして1905年、四阪島製錬所は本格操業を開始し煙害が収まったかと思われましたが、今度は新居浜から瀬戸内海を挟んで対岸に位置する今治方面で煙害被害が上がりました。
その後も住友は最先端の技術をドイツから取り入れ、少しづつ煙害被害を減らしながら完全解決を目指し奔走しました。そして1933年に画期的な有毒ガス除去法を開発すると、ついに1939年、中和工場を完成させ煙害の完全解決を達成しました。

閉山

昭和40年代になると坑道も海面下およそ1,000mまで掘り進められ、その分採掘作業にも負担が大きくなってきていました。また、貿易により安く鉱石を輸入できるようになり、最終的にはドルショックの影響で1973年に閉山しました。
総延長700㎞、江戸時代から昭和まで全期間の産銅量は65万tにも及びこれは足尾銅山に次いで国内2番目となります。
日本の発展を支えた銅山の功績を後世に伝えるべく、鍛錬工場や鉱山施設などは残され、記念館が建てられ、現在では観光客でにぎわっています。

別子銅山で見逃せないスポット5選

東洋のマチュピチュ(東平エリア)

花崗岩造りの東平貯鉱庫跡(一社)愛媛県観光物産協会提供

1902年に第三通洞が貫通し、その後1916~1930年には採鉱本部が置かれた東平(とうなる)。ここには実際に使用されていた坑道や鉱山運搬車両、森の中には採掘した銅を送る貯鉱庫だけでなく、その当時の人々が暮らしていた跡が残されています。標高750mに位置し、レンガ造りの建物跡がまるで天空都市のようだと、近年では「東洋のマチュピチュ」とも称されています。晴れた日には、新居浜の市街地や瀬戸内海を望むことができます。

赤レンガ造りの東平索道停車場遺構(一社)愛媛県観光物産協会提供

道の駅 マイントピア別子(端出場<はでば>エリア)

マイントピア別子園地内にある旧端出場水力発電所(一社)愛媛県観光物産協会提供

別子銅山最後の採鉱本部があった場所に建てられた観光施設。鉱山の景色を眺めながら乗車できる観光列車、時代ごとの作業の様子が垣間見れる観光坑道など鉱山の歴史を学べるものから温泉やレストランなどもあり、長時間楽しめる人気のスポットとなっています。

登録有形文化財にもなっている打除(うちよけ)鉄橋(一社)愛媛県観光物産協会提供

別子銅山記念館(上原・山根エリア)

半地下式構造で景観に溶け込むデザインの別子銅山記念館(一社)愛媛県観光物産協会提供

別子銅山283年に渡る歴史を体感できるのが別子銅山記念館です。住友の歴史を学べる「泉屋コーナー」、別子銅山の「歴史コーナー」、鉱石などの「地質・鉱床コーナー」、当時働いていた人の生活を紹介する「生活・風俗コーナー」、西洋から学んだ機材が並ぶ「技術コーナー」があり、開山から閉山まで一貫して一つの企業が経営した、世界で例を見ない銅山だからこそ集められた貴重な資料が並んでいます。

広瀬歴史記念館(上原・山根エリア)

海へ出る船をイメージして建てられた広瀬歴史記念館(一社)愛媛県観光物産協会提供

住友の初代総理事で、幕末~明治期の住友経営難の際に別子銅山を守り、近代化に尽力した広瀬 宰平(ひろせ さいへい)。その功績を讃えて建てられたのが広瀬歴史記念館です。展示室では当時の資料や映像、写真、また模型などを用いて、近代化の歴史をたどることができます。
また、敷地内にある旧広瀬邸は伝統的な日本の木造建築に西洋のマントルピースや洋式トイレ、ガラスなど新しい文化を取り入れた造りになっており、近代和風建築の先駆けとも言われています。母屋の二階は「望煙楼」と言われ、当時、ここから別子銅山の製錬所の煙を見ることができ、広瀬はその美しい風景を愛でるだけでなく、鉱山に育てられた恩を忘れず、子孫に伝えていくためにこの部屋を残しました。

日暮別邸記念館(星越エリア)

この日暮(ひぐらし)別邸は、煙害被害解決のために四阪島製錬所が操業を開始した翌年の1906年に、住友家の別邸として四阪島に建てられました。家から製錬所が見渡せるように位置し、煙害克服に対する当主の強い思いが感じられます。
明治期を代表する建築家、野口 孫市(のぐち まごいち)の設計で当時としては珍しい吹き抜けや暖炉など洋風のモダンデザインが取り入れられており、明治建築の風格を今に伝える貴重な建築物です。老朽化が進んだ別邸は2018年に新居浜市内の星越山に移築され、現在では二階部分に煙害克服の歴史を伝えるための記念館として開かれています。また、記念館の西側には展望台もあり、別子銅山はもちろん、瀬戸内海に浮かぶ四阪島の製錬所跡も一望できます。

★おすすめのお土産★
別子銅山の輝かしい歴史と伝統を讃え、世間に広めるためにできたのが「別子飴」です。水飴と乳製品とお砂糖を加えて銅釜で練り、そこに愛媛特産のみかんやお茶、イチゴ、ココア、ピーナッツをそれぞれ加えた、色鮮やかな5つの味があります。どこか懐かしい素朴な味わいが人気の別子飴、別子銅山へ訪れた際にはぜひお試しください。

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