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東洋のシンドラー、「命のビザ」と杉原千畝(リトアニア)

2022 5/23
目次

ユダヤ人を救った杉原千畝とは

戦前の杉原千畝

第二次世界大戦中、「命のビザ」を発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救った人物の足跡を辿ります。

1900年、岐阜県で生まれた杉原千畝は、外交官 の道に進み、1939年7月リトアニアのカウナスの領事館に勤めることになりました。 第二次世界大戦中の1940年7月の朝、領事館の前に集まっていたのは、日本通過ビザを求めたユダヤ人でした。『ユダヤ人をなんとかしてあげたい。救ってあげたい』という気持ちはあったものの、『8月中にこの領事館を閉めなければならないこと』、『数人のビザの発行ならともかく、何百人何千人になると本国の外務省 の許可が必要であること』、『ユダヤ人の大多数は日本政府が定めていた外国人入国令による通過ビザの発給要件を満たしていなかったこと』を考え、千畝は何日も悩み続けました。 外交官としての服務規律か人命救助か。

やがて、千畝はある決断を下します。人道主義・博愛精神に基づく独自の判断により、要件を満たしていないユダヤ人に対して、大量の日本通過ビザを発給したのでした。昼食もぬきにユダヤ人と面接し、一家族に一枚必死でビザを書き続けました。そしていよいよ領事館を閉じ、ベルリンに出発する日、駅にはたくさんのユダヤ人が見送りに来ていました。千畝から ビザを受け取った人や最後までビザを書いてもらおうとする人たちです。発車間際まで千畝はビザを書き続け、最後のビザは車窓から手渡したのでした。千畝が1か月間で発行したビザは2,139枚、そのビザにより命の助かったユダヤ人は約6,000人といわれています。『困った人がいたら助ける』 という彼の想いは、今を生きる私たちに大切なことを気づかせてくれるかもしれませんね。

リトアニアの場所とアクセス

日本からリトアニアへの直行便はないため、ヨーロッパ内の都市にて乗り換えが必要です。飛行時間は航空会社と乗り継ぎ時間にもよりますが、約13~15時間です。

リトアニア第2の都市カウナスにある 杉原千畝ゆかりの地3選

旧日本領事館

記念館内の外交官執務室(撮影:ユーラシア旅行社)

リトアニアの首都であるビリニュス近郊のカウナスには、杉原千畝の功績をたたえ、旧日本領事館が「杉原千畝記念館」として残されています。記念館では杉原千畝さんが必死でビザを発行し続けた外交官執務室や当時送ったとされる日本政府への電報、発給したビザリストなどをご覧いただけます。

ホテル・メトロポリス

千畝が滞在し命のビザを書き続けたホテル・メトロポリス(撮影:ユーラシア旅行社)

杉原千畝が在カウナス日本領事館を退去してから列車でリトアニアを出国するまでの間、一時滞在していたホテルです。このホテルに滞在している間も、ひたすら通過ビザを書き続けていたとされています。ホテルは当時のまま残されており、現在も宿泊施設として営業中。ホテルの壁には杉原千畝の顔写真が付いた記念プレートが飾られています。

カウナス中央駅

現在のカウナス中央駅 ホーム(撮影:ユーラシア旅行社)

杉原千畝がカウナスを去るときに利用した駅です。第二次世界大戦時に破壊され、その後再建されました。杉原千畝が列車に乗り込み、発車した後でさえも多くのユダヤ人らがビザを求めて集まりました。彼がこの駅を去る時、こんな言葉を残しました。「許してください、私にはもう書けない。皆さんのご無事を祈っています。」と。

日本にある杉原千畝ゆかりの場所

杉原千畝記念館

当時そのままを再現した「決断の部屋」(撮影:ユーラシア旅行社)

杉原千畝の生誕地といわれる岐阜県八百津町の高台に建つ記念館。記念館では杉原千畝の生涯、業績を解説するだけでなく、ユダヤ人を救うことを決意した「決断の部屋」を再現しています。皆様もこの「決断の部屋」で答えをだしてはいかがでしょうか。そしてこの記念館の展示物の中でぜひ見て頂きたいのが、千畝のビザによって助かった多くのユダヤ人たちからの感謝の手紙です。感謝の手紙を読むと、千畝のとった行動は正義であり、人道・平和の大切さを改めて考えさせられます。

杉原千畝が残した言葉

約6,000人を救った命のビザ

「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」

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