島原の乱とは
1637年、島原藩主松倉父子による暴政(過酷な課税)と幕府の禁教令(キリシタン弾圧)、さらに飢饉が重なった事で追い込まれた島原と天草の主に農民が起こした反乱。島原の原城における3ヶ月の籠城戦の後に幕府軍が一揆軍を鎮圧し、原城は徹底的に破壊され、一揆軍は全員処刑になりました。一方で島原藩主松倉重家はその責任を問われて江戸時代における大名としては唯一の斬首刑に処せられ、幕府も農民生活の向上について取り組む契機の一つになりました。
原城とは
元々島原を領有していた有馬氏が築いた城。一国一城令によって廃城になっていましたが、ある程度城としての機能が残されており、地の利もあった為に一揆軍が入城して立てこもりました。三方が海に面した崖の上に建つ天然の要害の地を占める為、一揆軍37,000に対して120,000を越える軍勢を有していた幕府軍も攻めあぐね、最終的に力攻めによる短期攻略を諦めざるを得ませんでした。
島原の乱後は完全に解体され、長らく土の中に眠っていた原城ですが、1980年代に入ってようやく発掘作業が本格化し、2018年には世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されました。
原城への行き方、アクセス
原城が位置する島原半島南東部は鉄道が走っていない為、最寄りの鉄道駅である島原駅からバス(60分)で訪れる事が出来ます。また、島原半島各地のフェリーが発着する港からもバスで訪れる事が出来ます。
長崎市からは車で約100分で訪れる事が出来ます。
現在の原城を見学する
島原の乱後に徹底して破壊され、長らく土の中に眠っていた原城。本丸と二の丸や三の丸等複数の曲輪から構成されていますが、発掘によっていくつかの遺構が掘り出され、記念碑や像などが並んでいるのが本丸です。
ホネカミ地蔵
本丸入口近くに立つ地蔵。島原の乱終結から100年以上が過ぎた1766年に有馬の住職らが散乱していた遺骨を集め、供養した地蔵です。
門・城壁跡
幕府軍を苦しめた堅牢な原城の城壁は、戦後の破壊対象の筆頭でした。外側の築石、裏栗石の順で落とされ、地中に一揆軍の死体もろとも埋められました。この事は発掘時に石垣の間から多くの人骨が発見された事からも裏付けられています。
天草四郎像
長崎平和公園の平和記念像も手掛けた地元島原出身の彫刻家村西望氏が手がけた像です。
本名は益田時貞。元はキリシタン大名であった小西行長(関ケ原の戦いで斬首)の家臣の子でキリスト教徒の間でそのカリスマ性が話題になっていた人物。乱を主導する人々の間で総大将として選ばれ、実際に最後まで戦い抜き、15歳でその短い生涯を閉じました。
天草四郎の墓と十字架のモニュメント
近郊の西有家町の民家で偶然発見された墓碑を中心に構成されている墓です。幕府軍の総攻撃の前に命を落とした天草四郎の首は長崎に送られて行方不明になりましたが、墓碑この一帯の農民は島原の乱で全滅したので、他地域からの移民が入植して出来た新しい村の一部として利用されていた可能性はあります。
三体のキリシタン像
地蔵のようにも見えるキリシタン像。その見つめる先には島原の乱の首謀者たちが集った湯島も遠くに見えます。