知覧特攻基地とは
知覧に飛行場基地が出来たのは、太平洋戦争開戦と同時期の1941年12月。正式名称は、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所。大刀洗陸軍飛行学校とは、福岡県にあった少年飛行兵育成目的の学校。知覧の飛行場は当初主に教習用に用いられていましたが、戦局が悪化し、連合軍が本土に迫る1944年には本土最南端の航空基地として実戦に転用されました。そして戦局がさらに悪くなる中で機体ごと敵艦に攻撃する特攻が始まると、敵艦隊に近いというその位置から特攻全体の約半数がこの知覧基地から出撃していきました。
戦後に基地は破壊され、戦争の記憶を拭いたいという考え方も根強い中で、”特攻の母”としても知られる鳥濱トメさんを中心に有志たちが若くして散った隊員たちを慰霊する活動は続き、やがて特攻平和会館の設立と慰霊の地確立という成果に繋がりました。若くして散った隊員達をしのんで現在も多くの人が訪れ続けています。
知覧への行き方、アクセス
鹿児島湾の西側に伸びる薩摩半島の中央部に位置する知覧は鉄道駅が近くにない為、公共交通機関では、鹿児島中央からバスで訪れるのが一般的です。所要時間は1時間弱です。また著名観光地である指宿温泉からも同程度の距離・時間でバスが走っています。
周辺には出水海軍航空隊基地跡、万世特攻平和記念館、戦艦大和鎮魂碑などもありますので、戦跡を巡りたい方はツアーの利用もお勧めです。
知覧特攻平和館と周辺のみどころ、おすすめ観光
特攻平和観音堂
戦後更地に戻された知覧基地。その一角でひっそりと鳥濱トメさんが散った隊員たちの供養を続けていました。一方、戦時中司令官として特攻隊員たちを送り出していた菅原道大氏も戦後隊員たちの慰霊と顕彰に努め、その活動に知覧の行政、さらに鳥濱トメさんも加わって1955年に特攻平和観音堂が建立されました。中には隊員たちの芳名が記された書物を胎内に納めた観音像が祀られています。知覧を訪れたら、まずここで祈りを捧げましょう。
知覧護国神社
知覧の護国神社は、明治維新直後の1869年に戊辰戦争で命を落とした薩摩藩士たちを祀る為に造営されました。その後多くの犠牲者を出した西南戦争、さらに明治から昭和にかけての戦死者など地元出身者を祀っていましたが、特攻隊員に関しては他地域出身者も合祀されました。特攻平和観音堂が出来て間もなくに同じ敷地に遷座しました。
知覧特攻平和会館
観音堂の建立、護国神社の遷座に加え、作家高木俊朗の作品を通して知覧基地の名が広まり、年々慰霊に訪れる遺族や一般人も増える中で特攻隊員たちの遺品を収めた小さな知覧特攻遺品館を拡張する必要が生じ、誕生したのが知覧特攻平和会館です。会館設立の目的につきましては、下記公式サイトのメッセージをお読みください。
知覧特攻平和会館公式サイトより設立目的引用
”この知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。
私たちは、特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。
特攻隊員達が二度と帰ることのない「必死」の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。
この地が出撃基地であったことから、特攻戦死された隊員の当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに知覧特攻平和会館を建設した次第であります。”
特攻平和会館のすぐそばの敷地の中には特攻隊員の像と自衛隊練習機(当然ながら戦後のもの)が展示されています。
特攻平和会館内は基本撮影禁止(上記ゼロ戦展示の部屋を覗く)となっていますので、館内の様子につきましては、googleアースでご確認ください。尚、零戦は特攻用に用いられる事はありませんでしたが、基地のシンボルの一つとして甑島付近の海底から引き揚げられました。実際に特攻用に使われた航空機「隼」のモデルは遺品室に展示されています。
左右には、1,036名の特攻隊員たち全員の遺影が出撃順に並んでおります。中央部には、特攻にも用いられた陸軍一式戦闘機「隼」の復元モデル、そしてその間に手紙や遺影、遺品が展示されており、隊員たちの気持ちが滲む品々に、涙なしには見学することはできません。講和室や視聴覚室もあり、タイミングがあえば、記念館側の語り部や映像からの紹介も体験すると良いでしょう。
展示より:穴澤利夫大尉の恋人への手紙(知覧特攻平和会館デジタルアーカイブ)
三角兵舎
敷地内には、特攻隊員たちが寝泊まりしていた三角兵舎も再現されています。出撃を前にした隊員たちはどのような気持ちで日々を過ごしていたでしょうか。
ホタル館富屋食堂・旅館
知覧に嫁いだ鳥濱トメ(1902-1992)さんが開いた富屋食堂。陸軍の知覧飛行場ができると、軍指定の食堂に選ばれ、若い隊員たちが盛んに出入りするようになりました。面倒見が良いトメさんは若い隊員たちにも慕われ、後に”特攻の母”と呼ばれる程親身になって特攻隊員たちに接しました。時には軍の検閲を受けたくない手紙の投函やその他軍にみつかっては行けない頼み事なども隊員たちの気持ちを汲んで叶えたと言われています。
現在は隊員たちがトメさんに預けたりした品々の展示を含め、特攻隊員たちとトメさんの交流の場であった食堂の姿を保存した資料館として公開しています。
尚、この資料館の館長はトメさんのひ孫の現在鳥濱拳大氏が担っていますが、トメさんのかつての味を継承した食事処「知覧茶屋」を平和祈念公園に隣接した場所で開いていますので、合わせてお楽しみいただけます。
戦後は知覧飛行場が米軍によって破壊され、戦争美化に繋がる活動も制約がある中で、トメさんはひたすら特攻隊員たちの慰霊を続けていました。その活動は少しずつ認められて話題も呼び、観音堂の建立に至った事に触れました、実際に特攻隊員たちの遺族が慰霊に来てくれた時の為に、すぐ近くに泊まれる場所として富屋旅館も開きました。交通網が整った現代では知覧は日帰りでも行きやすくなりましたが、富屋旅館は今でも現役で宿泊する遺族や慰霊で訪れた旅人たちを迎え続けています。