2011年に始まった内戦が泥沼化して未だ出口が見えないリビア東部を襲った2023年9月12日の洪水。災害からの早い復興と遠くない未来における内戦終結、そして再びリビアの地を旅できる日が来る事を願い、古代地中海において一方の雄であったリビア東部のキュレネ遺跡を紹介します。
キュレネとは
紀元前7世紀にギリシャのティラ(現在のサントリーニ島)の人々が地中海の対岸にある北アフリカのエジプト西方に目を付け、現在のリビア東部にあたる土地に”ペンタポリス”と呼ばれる5つの植民都市を築きました。キュレネは東方にエジプト王国、西方にはフェニキア人のカルタゴ、北にはギリシャ各都市があり、いずれとも交易を重ねながら都市として発展を続け、古代地中海世界における一方の雄として繁栄します。
しかしアフリカ先住民やエジプトとの紛争も絶えず、さらにアケメネス朝ペルシャ、アレクサンドロス三世(大王)の古代マケドニア王国の影響下に入り、最終的にはローマ帝国の台頭とともにその属州に収まります。その間も都市としては依然地域の中心であり続け、現代まで残る広大な都市遺跡を築き上げました。
キリスト教が広まる中でも、磔になる前のイエスが歩いた苦難の道でイエスの替わりに十字架を背負う”キュレーネのシモン”が手伝う描写は宗教画にもよく登場し、実際に初期キリスト教の時代にはアフリカにおける重要な布教拠点でした。
3世紀以降に起きた数度の大地震で大きな被害を受け、さらにイスラム教徒が北アフリカに到来すると、年としてのキュレーネは打ち捨てられました。しかしキュレナイカというリビア東部全体を指す地名は、リビアを三分する地名の一つとして現代まで残っており、歴史を感じさせてくれます。
キュレネ遺跡への行き方、アクセス
リビア東部の中心都市で航空便もあるベンガジから車で約4時間でキュレネ遺跡に到着します。かつて”ペンタポリス”を構成したトクラ、アポロニア等も遺跡が残っていますので、一緒に巡るのもおすすめです。
※2023年現在、リビア全土に外務省から退避勧告が出ており、観光目的でキュレネを訪れる事は出来ません。
キュレネ遺跡のみどころ
アポロン神殿
キュレネの神話上の創造は、太陽神アポロンによる妖精キュレネの略奪に始まります。それ故キュレネの街にとってもアポロンは重要な神であり、都市の創建初期にアポロンに捧げられた巨大な神殿が造営されました。重厚なドリス式で建造され、発掘したイタリア隊が修復した神殿は当時の威容を現在にも伝えています。
尚、この神殿はキュレネにとって生命線だった真水が湧く泉に近接して建てられ、その泉もアポロンの泉と名付けられて神聖視されました。
ゼウス神殿
キュレネで最大規模を誇る神殿は、最高神ゼウスを祀るこのゼウス神殿でした。アポロン神殿と同じドーリス式で長辺約70m、短辺約32mの規模に及び、アテネのパルテノン神殿やオリンピアのゼウス神殿と並ぶ古代ギリシャ世界最大級の神殿の一つでした。2列に並んで神殿を囲んでいた柱を通って内部には、祭壇の跡も残っています。
ギュムナシオン
キュレネの遺跡に広大な面積を占めるギュムナシオンは、現代のジムの語源で主に肉体鍛錬が行われていた場所でした。(キュレネも他都市同様古代オリンピックやその他の競技会に代表を送っていました)
ローマ時代に入るとジムよりも公共的な広場であるフォーラムに改装されました。
デメテル神殿
デメテルは季節の女神で冥王ハデスに娘ペルセポネをさらわれる神話で知られており、特に農業従事者にとっては大事な神様でした。キュレネではデメテルとペルセポネを信仰するカルトも盛んで、この神殿以外にも街の外側にデメテルの聖域が広がり、カルトの秘儀が行われていたと言われています。
博物館
キュレネ遺跡から出土した品々を収める遺跡付属の博物館。古代ギリシャ、そしてローマ時代に入ってからの数多くの彫像が出土しており、質量ともに申し分ないキュレネの像は大英博物館やルーブル美術館でも展示されています。内戦後は盗掘や盗難者も多い為現在の建物の状態が懸念されますが、地震で埋もれて保存状態がよいものも少なくなく、遺跡とセットで必ず訪れたい博物館です。