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大王アレクサンドロス3世の古代マケドニア王国、歴史と史跡を辿る

2022 9/13
目次

古代マケドニア王国とは

古代マケドニア王国の歴史

テッサロニキに建つアレクサンドロス像(撮影:ユーラシア旅行社)

紀元前7世紀頃、現在のギリシャ北部から北マケドニア共和国南部にかけ、ギリシャ系民族によって創設された古代マケドニア王国。当初はアテネやスパルタ等が権力を握った古代ギリシャの中心から外れた周辺国家の一つでしかなく、ペルシャ戦争においてもペルシャ方に組み込まれてしまうなど大きく目立つ事はありませんでした。

フィリッポス2世死去時の勢力図(C)Marsyas(CC BY-SA 2.5)の地図に日本語地名追加

しかし、対ペルシャで共に戦ったアテネとスパルタそしてそれぞれの同盟都市は、ペルシャの脅威が減退すると、お互いに戦火を交えるペロポネソス戦争(紀元前431-404)に突入し、その後も都市間の戦争を重ねる間に国力を落としました。その間に着々と力を蓄えた古代マケドニアがフィリッポス2世、アレクサンドロス3世(大王)の台頭によってギリシャを統一し、宿敵アケメネス朝ペルシャを破って滅ぼすという快挙まで挙げ、中東までを支配下に収めた古代マケドニアの全盛期を迎えます。

アレクサンドロス3世の死後に帝国は分裂し、古代ローマが台頭して来ると複数回に渡るマケドニア戦争によって滅亡への道を歩み、紀元前148年には完全に滅亡して属州化され、その歴史に終止符を打ちました。

フィリッポス2世

フィリッポス二世の頭像

古代ギリシャ世界において北方の中小国家の一つでしかなかった古代マケドニア王国を躍進させた名君であるフィリッポス2世。彼の功績なくして息子アレクサンドロス3世の東方遠征は起こり得なかったと言っても過言ではありません。強大なポリスの施策を積極的に採用して富国強兵を推し進め、ギリシャが内戦状態に陥る中で来るべき時を伺いながら狙って出兵を重ね、古代ギリシャ世界の実権を握ります。

テッサロニキのアリストテレス像(撮影:ユーラシア旅行社)

古代ギリシャをまとめたフィリッポス2世が計画したのが宿敵アケメネス朝ペルシャを攻める東方遠征です。しかしその矢先、紀元前336年に婚宴中に暗殺され、その生涯を閉じます。東方遠征の計画は息子アレクサンドロスが後に成功に導きますが、その成功を支えたものの二つがフィリッポス2世によるものでした。
一つ目は、フィリッポス2世が南の都市国家テーベを参考に編み出したマケドニア式ファランクスという重装歩兵を用いた戦術を確立したでした。このマケドニア式ファランクスの軍は圧倒的な力で敵を制圧し、歴史にその名を刻みました。

長槍が特徴のマケドニア式ファランクス

二つ目は息子アレクサンドロス3世の家庭教師としてマケドニア出身で当時学会で頭角を現し始めたアリストテレスを招聘した事です。アリストテレスは、小さな学園を開き、アレクサンドロスに加えて彼の若い友人も一緒に教え、やがてその友人たちも古代マケドニア軍の将軍としてその進撃を支える事になります。

アレキサンドロス3世(大王)

アレキサンドロス3世(ナポリ考古学博物館のモザイクより)(撮影:ユーラシア旅行社)

紀元前356年、首都ペラでフィリッポス2世とエピロス王の娘オリンピアスの間に生まれたアレクサンドロス3世。幼少時よりその才を見込まれ、父が招聘した家庭教師アリストテレスの教えの元で教養を身に着けつつ、マケドニア軍の戦争にも参加して初陣から大器の片鱗を見せます。しかし20歳になった年に父フィリッポス2世が暗殺され、ギリシャ支配を安定化させて東方遠征へ向かおうとする古代マケドニアの先行きに暗雲が垂れこみます。

ペルシャのダレイオス3世(右側の戦車上で振り返っている人)を駆逐するアレクサンドロス3世(赤いマント)(ピエトロ・ダ・コルトーナの作品、ローマ・カピトリーニ美術館所蔵)

しかし後継者争いを制してマケドニア軍を再整備したアレクサンドロスは、父死去の翌年には東方遠征に出発します。小アジア(現トルコ南東部)からアナトリア高原、そして前333年にはペルシャとの大規模戦争になったイッソスの戦いで勝利し、中東地域に進軍します。中途でアフリカに入ってエジプトも制した後に再びペルシャに向けて進軍し、スーサ、バビロン、ペルセポリス等の主要都市を制覇し、強大であったアケメネス朝ペルシャを滅ぼします。その後は中央アジアやインド方面にまで遠征を続け、東西文明交流を果たすなど世界史にも大きな足跡を刻みましたが、前323年、32歳の志半ばにバビロンで病気により命を落とします。

古代マケドニア王国の都と史跡巡り

ヴェルギナ(アイガイ)

ヴェルギナの墳墓(撮影:ユーラシア旅行社)

現在ではヴェルギナと呼ばれる古代マケドニアの古都アイガイは、マケドニア王国創建時から重要な都市として栄え、紀元前5世紀頃に首都がペラへ遷都された後も古代マケドニア王国の宗教的な中心地として依然その重要性を保ち続けました。しかしローマの台頭後に戦争で敗れてしまうと、アイガイも破壊され、歴史の中でその存在が埋もれて行きました。

19世紀以降の考古学ブームで埋もれた幻の都市アイガイの場所も盛んに捜索され、現在のヴェルギナの遺跡の発掘が進められます。1977年には、地中から大型墳墓が発見され、内部から壮大な玄室や黄金の副葬品が多数発見され、考古学界にも激震が走ります。墳墓は盗掘を免れたフィリッポス2世の墓である事が判明しました。奇しくもアイガイの劇場で暗殺されたフィリッポス2世は、そのままこの都市に葬られたのです。現在墳墓は中に入って、玄室の入り口や出土品の展示を見学する事が可能です。

フィリッポス2世の玄室入口
フィリッポス2世の黄金の冠(撮影:ユーラシア旅行社)

ペラ

ペラ遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

紀元前5世紀頃、古代マケドニア王国の首都がペラに遷されると、古代マケドニア王国の軍事的、商業的中心都市として大きく栄えました。アレクサンドロス3世はこの街で生まれ、東方遠征はこの街から出発してペルシャを目指しました。アレクサンドロス亡き後も古代マケドニア王国の中心として栄え続け、ローマ時代に入っても属州の州都が置かれました。

今日のペラ遺跡には、古代マケドニア王国時代からローマ時代にかけての街並みが残されています。ここから始まった物語に思いを馳せると共に、付属博物館にも足を延ばし、実際に大王がモデルになっている『アレクサンドロスの獅子狩り』のモザイクも見学しましょう。

アレキサンドロスの獅子狩りのモザイク/ペラ博物館(撮影:ユーラシア旅行社)

フィリッピ(フィリッポス)

フィリッピ遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

古代マケドニア東部、周囲に貴重な金鉱もあった要衝の地に位置していたフィリッピ。その名の通り、フィリッポス2世の時代に古代マケドニア版図に組み込まれ、都市が大きく発展して王の名を冠する街となりました。古代マケドニアの衰退後もローマからアドリア海経由でビザンティウム(現イスタンブール)までを結ぶ重要通商路であったエグナティア街道の都市として重要性を保ち続けました。紀元前42年には、カエサル暗殺で知られるブルータス、カッシウスとカエサル派のオクタヴィアヌス、アントニウスの決戦フィリッピの戦いも街の西方で起きました。

フィリッピ遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

アンフィポリス

アンフィポリス遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

紀元前5世紀、アテネの北部ギリシャへの拠点として建設されたアンフィポリ。エーゲ海に面した河口部の港という戦略的要地にあり、その後もアテネとマケドニアの間でアンフィポリを巡る争いが続いたものの、フィリッポス2世によるマケドニアの躍進以後は、マケドニアの軍港都市としての歴史を歩みます。東方遠征でもアレクサンドロスの海軍の拠点として、ここから出航しました。

遺跡から少し離れた場所にあるアンフィポリスのライオンは、20世紀に発掘された像でアンフィポリ生まれでアレクサンドロスの優秀な部下であったラオメドンの功績を記念して建てられたものと推定されています。

アンフィポリスのライオン(撮影:ユーラシア旅行社)

テッサロニキ

テッサロニキの城壁から市街を望む(撮影:ユーラシア旅行社)

テッサロニキは、フィリッポスの娘、アレクサンドロスの妹であるテッサロニカの夫で大王の部下でもあったカッサンドロスが築いた都市。名前は妻テッサロニカに因んでいます。古代の都市の多くがその後の歴史の中で姿を消していく中でテッサロニキは現在でも人口80万人を抱えるギリシャ第二の都市として成長を続けた為に古代マケドニア王国の足跡は街中にはほとんど残っておりません。
テッサロニキの目玉は、古代マケドニア王国時代の展示が揃うテッサロニキ考古学博物館です。特にマケドニアの黄金製品のコレクションは充実しています。

テッサロニキ考古学博物館、古代マケドニア王国の黄金展示(撮影:ユーラシア旅行社)

特に近郊のデルベニのネクロポリス(墓地)から発掘された壺(下部画像)は、青銅に鉛を混ぜて黄金色に輝いており、ディオニソスの結婚を描いた装飾も秀逸です。

テッサロニキ考古学博物館、古代マケドニア王国の黄金展示(撮影:ユーラシア旅行社)

へラクレア・リンケスティス(北マケドニア共和国)

ヘラクレア・リンケスティス遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

西方や北方への備えとして、紀元前4世紀半ばにフィリッポス2世が築いたのがヘラクレア・リンケスティスです。東西交易を担った通商路(後のエグナティア街道)の途上にある為、マケドニアがローマにとって替わられ、さらに東ローマ帝国の時代に入ってもその重要性を保ち続け、特に多くの初期キリスト教教会が建造されました。

ストビ(北マケドニア共和国)

ストビ遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

現在の北マケドニア共和国中央部に位置するストビ遺跡。古い歴史ははっきりしていないものの、バルカン半島北側に広がっていたパンノニアの一部で、紀元前3世紀末頃にマケドニアの支配下に入ったという記録があります。現在の遺跡はその後のローマ、ビザンチン時代の遺構が大半を占めますが、北マケドニア共和国でも1,2を争う観光名所の一つです。

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