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古代ギリシャ最強の都市国家スパルタとスパルタ教育

2022 9/21
目次

スパルタとは?

スパルタ遺跡(撮影:ユーラシア旅行社)

いわゆる”スパルタ式”教育で今日の世界にもその名を馳せ続ける古代ギリシャ最強の都市国家と謳われたスパルタ。ギリシャ南部のペロポネソス半島南方に位置する都市国家スパルタは紀元前7世紀頃から徐々に頭角を現し、軍事力増強を目的にした体制を整えながら古代世界にその名を轟かせるまでに上り詰めました。紀元前5世紀に入って強大なアケメネス朝ペルシャが大軍を率いて来襲した際にスパルタは反ペルシャの旗手としてギリシャをまとめ、テルモピレーの戦いやプラタイアの戦いで奮戦し、見事にペルシャ撃退に成功しました。その後はアテネと争ったペロポネソス戦争にも勝利してギリシャの全権を掌握しますが、間もなくして都市国家テーベに敗れてから衰退して行き、古代ローマ帝国がギリシャを属州化した際に自治を失いました。質実剛健を旨に徹底した軍事国家の道を歩んだスパルタ遺跡にはアテネのような巨大建造物もなく、またアクセスも悪い地域にある為にあまり訪れる人は多くありませんが、歴史にその名を轟かせた都市国家の跡は一見の価値はあります。

スパルタへの行き方、アクセス

ペロポネソス半島南部に位置するスパルタ周辺への鉄道はなく、アテネからバスを利用するか、ツアーを利用するのが一般的です。山間部も走る為、アテネからのバスは片道約3時間30分の所要時間です。同様にアクセスが良くないペロポネソス半島のオリンピア、そしてミケーネ等の見所も周遊する場合は、ツアーの利用がお勧めです。

古代ギリシャのスパルタ教育とは

ジャック・ルイ・ダヴィッド『スパルタのリュクルゴス』(ブロア美術館/フランス)

世界にその名を馳せる厳格な”スパルタ教育”が生まれたのはスパルタの伝説上の政治家リュクルゴスの改革によるとされています。それまで農耕主体の小さな都市国家であったスパルタを強くするために、市民平等、軍事力増強、質実剛健等をモットーとした体制を築き、軍事国家スパルタの礎となります。

ジャン=ピエール・サン=トゥール『スパルタの新生児の選別』(ミュンヘン/ノイエ・ピナコテーク所蔵)

具体的には、生まれた際に赤子を長老たちの前に連れて行き、健康で丈夫そうであれば合格、虚弱や障害が見られればスパルタの西側に聳えるタイゲトス山に捨てさせました。(上記絵画の主題にもなっているようにこの新生児の選別は厳格なスパルタの代表的事象として語り継がれてきていますが、この説には現在も賛否両論あります。)

男子は7歳になると共同生活を始め、アゴベと呼ばれる教育制度の元で12歳から本格的な軍事訓練に従事し、18歳で卒業して一人前の戦士になりました。しかし、共同の食事や訓練等は結束力を高める為に成人後も続きました。生活においても贅沢品利用や蓄財は禁じられ、肉体鍛錬を主としたストイックな生活が理想でした。他都市に恐怖を抱かせる為にスパルタ人達自体も噂の流布に積極的に加担したと考えられますが、古代ギリシャにおいてもスパルタ教育の名は既に厳しいものとして知られていました。

スパルタの歴史

都市国家スパルタの台頭とメッセニア戦争

紀元前10世紀より前の時代であるという説が強いホメロスの叙事詩『イーリアス』においてもスパルタは戦争の原因となる絶世の美女ヘレネと王メネラオスの本拠として登場しますが、このミケーネ時代は後の軍事国家スパルタとは連続的な関係にはなく、別物と考えられています。

軍事国家スパルタはリュクルゴスの改革を経て紀元前7世紀頃から徐々に力を付け始め、西側に広がるメッセニアを領土に収める事で国力を増強し、ペロポネソス半島北側の諸都市国家と対立しながらもその力を認めさせ、リーダー格に上り詰めて行きます。

ペルシャ戦争とテルモピレーの戦い

テルモピレーのレオニダス像(撮影:ユーラシア旅行社)

紀元前5世紀に入ると、オリエント地方一帯を統一した巨大帝国アケメネス朝ペルシャが小アジア(現在のトルコ)からギリシャやエーゲ海に進出を始め、ギリシャの諸都市国家は戦うか、従属するかの二択を迫られる事になりました。巨大な兵力を前に戦わずしてペルシャの軍門にくだる都市国家も少なくない中で、スパルタは徹底抗戦を主張し、統一性のなかった都市国家群の連合軍を創り上げペルシャ軍を向かい撃ちます。

この戦いは複数回に渡るペルシャ戦争と呼ばれ、第一回ではマラソンの語源となったマラトンの戦いで一時的にダレイオス一世のペルシャ軍を退ける事に成功したものの、その後クセルクセス一世の時代に入って再度来襲したペルシャ軍100万。それにに対し、スパルタを主体としたギリシャ連合軍は数万という寡兵の為、スパルタのレオニダス王はテルモピレーの狭路でペルシャ軍を迎え撃ち、進軍を止めている間にギリシャ連合軍が戦力増強を図るという戦略を選びました。その為約1000以外の兵は後方に撤退させ、前線はスパルタの精鋭300人で固め、ペルシャの大軍相手に奮戦した末に全滅しました。映画『300(スリーハンドレッド)』で描かれているのもこの戦争です。

レオニダスとスパルタ兵の勇姿はギリシャ連合軍を奮い立たせ、サラミスの海戦での勝利、そしてプラタイアの戦いではスパルタ軍が主体となってペルシャ軍を撃破し、ギリシャをペルシャから守り抜く事に成功しました。

山が海に迫るテルモピレーの古戦場(撮影:ユーラシア旅行社)

ペロポネソス戦争とスパルタの終焉

ペルシャという強敵がいる間は結束していたギリシャの都市国家群も、ペルシャ戦争の終焉を機にまたお互いに紛争を始めます。特にペルシャ戦争を機に勢力を増したアテネとスパルタは二大都市国家として対立が激化し、やがて紀元前431年からギリシャの覇権をかけたペロポネソス戦争に突入します。最終的にはアテネに勝利したものの、双方とも消耗が大きく、北方の周辺国であったマケドニアのギリシャ制覇の遠因になったと言われています。

ペロポネソス戦争終結後も都市国家同士の戦いは続き、紀元前371年、力を増したテーベの前にスパルタは大敗を喫し、栄光の時代は幕を閉じます。都市国家としてはなお古代ローマ帝国のギリシャ属州化まで存続はするものの、昔日の勢いや名声はなく、スパルタ教育もいつしか失われて行きました。

スパルタ遺跡のみどころ

古代スパルタ遺跡入口(撮影:ユーラシア旅行社)

『夏草や兵どもが夢の跡』という句がふさわしいスパルタ遺跡は、草やオリーブの木に覆われた野が広がる現代のスパルタの街の北部に位置しています。あまり訪れる人も多くない為か、野ざらしになっている感は拭えませんが、元々巨大建造物もなく、実用的な物のみを好んだスパルタらしさも感じられます。

古代劇場とタイゲトス山

古代劇場とタイゲトス山(撮影:ユーラシア旅行社)

スパルタ遺跡の中で最も原型に近い形を留めているのが、遺跡の奥にある古代劇場です。劇場は現代のエンターテイメントというよりは宗教的行事の場として専ら用いられていました。奥に聳える山々が、選別で落選してしまった新生児が捨てられたと言われるタイゲトス山です。

古代劇場(撮影:ユーラシア旅行社)

アクロポリスの聖域、アテナ神殿

アテナ神殿(c)Davide-Mauro(CC-BY-SA-4.0)

スパルタのアクロポリスにもアテネと同じように女神アテナが祀られていました。とはいえ神殿の規模はそれ程大きくはありません。周囲には街の中心部の遺構も点在していますが、ほとんど原型を留めておらず、整備もあまりされていません。しかし古代スパルタ人にとっての誇りは戦闘の中における自分たちの姿であり、もとより華々しい都市遺跡を作っていた訳でもないので、このような姿がかえって古代スパルタの精神を今日に伝えているのかもしれません。

スパルタ遺跡にて(撮影:ユーラシア旅行社)

レオニダス像

レオニダス像(撮影:ユーラシア旅行社)

街の北部、遺跡入り口にも近い一角に立つのが、スパルタを代表する英雄レオニダス一世の像です。テルモピレーのレオニダス像を模倣しているのでかなり似ています。都市国家が乱立してギリシャという国家概念がなかった時代に諸都市国家を束ね、スパルタだけではなく、ギリシャの為に戦って散ったレオニダスの後ろにギリシャの旗がたなびいているのは絵になります。

チョコレートのレオニダス
ベルギー王室御用達、本場のチョコレートとして日本国内や世界各地にも支店が多いベルギーのチョコレート会社レオニダスは、スパルタ王と同名のギリシャ人レオニダス・ケステキディス氏が開業したのがその名の由来。企業のロゴはこの像にもあるトサカがある兜を被ったレオニダス王が描かれています。

スパルタ考古学博物館

スパルタ遺跡の出土品が並ぶ博物館(撮影:ユーラシア旅行社)

スパルタの街中には、スパルタ遺跡から出土した品々を展示している考古学博物館があります。この博物館の目玉は、スパルタの最盛期に近い紀元前5世紀頃のものとされるスパルタ兵の像。今ではレオニダス王のシンボルにもされるトサカ型の兜はこの像に由来し、像そのものも通称”レオニダス”と呼ばれています。

通称”レオニダス像”と呼ばれるスパルタ兵の像(撮影:ユーラシア旅行社)
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