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日本最古が集う日本最古の古道「山の辺の道」(奈良)

2022 10/25
目次

山の辺の道とは?

山の辺の道とは、奈良盆地の山裾にある桜井市三輪から奈良を繋ぐ日本最古の古道です。その存在は「古事記」「日本書紀」に道の存在が記され、神道、古墳、仏教など、数多くの日本最古級の文化が残る古道です。

山の辺の道を辿ると、「古事記」に記される最古の神宮「石上神宮」、伊勢神宮より前に天照大御神が祀られた最古の元伊勢「檜原神社」、そして本殿がなく、三輪山そのものが御神体である日本最古の神社「大神神社」、古墳では、日本最古級の大型前方後円墳である「衾田陵」そして、日本に初めて仏教が伝来とされる地など、元来の日本文化に触れることができます。

山の辺の道のルート

山野辺の道ルート

山の辺の道は桜井市にある三輪駅から近鉄奈良駅の間のうち、JR三輪駅から天理駅までの南ルート、天理駅から近鉄奈良駅までが北ルートと呼ばれています。地図上では、赤が南ルート、青が北ルートです。

この記事ではハイキングルートとしても人気があり、日本最古級の文化が数多く残る南ルートの見どころについて詳しく紹介します。

山の辺の道南ルート(撮影:ユーラシア旅行社)

ちなみに北ルートには、十二神将像が有名な「新薬師寺」、奈良の怨霊伝説が残る「崇道天皇陵」、春日大社の創建時に関わりがある「宅春日神社」そして平城京の守護と国民繁栄のために建てられた「春日大社」などがあり、奈良の文化をより深く味わいたい方におすすめです。

山の辺の道の見どころ・名物7選

大神神社(おおみわじんじゃ)

大神神社(撮影:ユーラシア旅行社)

大神神社は三輪山そのものが御神体である日本古来の信仰の形を残す神社です。御祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)であり、出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の国造りを支えた神です。神代の頃から大物主神が三輪山に鎮まることは「古事記」「日本書紀」にも記されています。

「古事記」によると、崇神天皇(すじんてんのう)の頃(古墳時代)に大物主神の神祭りが疎かになり、祟りを起こされ、国に疫病が流行りましたが、崇神天皇は大物主神を祭ることで疫病は終息したと伝わっています。三輪山は古い昔から神の鎮まる山として禁足地でしたが、近年はお参りとして登拝が可能になりました(2022年9月現在は受付中止)。

三輪そうめん

三輪そうめん(撮影:ユーラシア旅行社)

三輪は素麺(そうめん)発祥の地としても知られています。江戸時代の各地名産のガイドブック「日本山海名物図絵」では、日本一であると賞賛され喉越しが滑らかでコシのある細い麺が特徴です。三輪そうめんの起源は奈良時代に遡り、大神神社の大神朝臣狭井久佐(おおみわのあそんさいくさ)の次男、穀主(たねぬし)が三輪にて小麦の栽培を行い、素麺(そうめん)作りを始めました。この事から素麺作りをする人々は大神神社を素麺の守護神としても敬ってきました。

檜原神社(ひばらじんじゃ)

檜原神社(撮影:ユーラシア旅行社)

大神神社の摂社である檜原神社も本殿がなく、三ツ鳥居を通して神座を拝する日本古来の姿です。御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)です。

崇神天皇の頃、天皇と同居していた天照大御神の遷座を託された豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が伊勢に到達する前に天照大御神をお祀りしていた最初の場所(倭笠縫邑・やまとかさぬいむら)であり、天照大御神が伊勢に御遷幸された後も引き続きお祀りしている日本最古の「元伊勢」としても知られています。

石上神宮(いそのかみじんぐう)

石上神宮(撮影:ユーラシア旅行社)

石上神宮は「古事記」に登場する最古の神宮であると知られています。神宮の「宮」は、建物のことであり、古代の神社には建物がなかった事から、神社と区別して建物のある神社を神宮と呼んでいました。

主祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)であり、神武天皇の熊野遠征や出雲のヤマタノオロチ伝説など、記紀でも有名なエピソードにまつわる御神体に宿っております。それぞれ、布都御魂大神は初代・神武天皇が熊野の地にて倒れた際に天から授かった剣に宿る神であり、布留御魂大神は亡くなった人をも蘇らせる十種の神宝に宿る神、布都斯魂大神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを倒した際に使われた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿る神です。

また境内には神使である鶏が出迎えてくれます。

石上神宮の鶏(撮影:ユーラシア旅行社)

衾田陵(ふすまだりょう)

衾田陵(撮影:ユーラシア旅行社)

衾田陵は奈良県桜井市にある箸墓古墳に次ぐ、日本で2番目に古いとされる古墳です。4世紀前半に造られた全長234mの前方後円墳で、古墳名は西殿塚古墳(にしとのつかこふん)です。継体天皇の皇后手白香皇女(たしらかこうじょ)の墓とされ、宮内庁が管理しておりますが、手白香皇女は6世紀の人物であり、4世紀の埴輪が出土している事から様々な説があるようです。

崇神天皇陵(すじんてんのうりょう

崇神天皇陵(撮影:ユーラシア旅行社)

崇神天皇陵は4世紀後半に造られたとされる全長242mの巨大な前方後円墳。大和朝廷の創始者である第10代崇神天皇の墓とされています。崇神天皇は大神神社や檜原神社にも関わりが深く、疫病が流行った時代に国を納めた天皇です。伊勢神宮に天照大御神をお祀りするきっかけとなる神と天皇の同床共殿を廃止したのも崇神天皇の時代です。この考えを受け継ぎ、伊勢神宮が建立されたのは第11代垂仁天皇の時代です。

古墳名はこの辺りの地域の名前を由来とする「行燈山(あんどんやま)古墳」です。

仏教伝来の地の碑

仏教伝来の地の碑(撮影:ユーラシア旅行社)

この辺りは山の辺の道をはじめ、いくつかの古道が交差する陸路の交易地でもあり、摂津の難波津(なにわつ)から大和川(初瀬川)を遡行する水路の交易地でもあったため、多くの物資が集まる交易の中心として栄えました。かつては付近に欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)があり、外国と交流する水上交通の要所としても利用されていました。

『日本書紀』によると、欽明天皇の時代(552年)、百済(くだら)の王の使者が、この地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、この時に日本で最初に仏教が伝来したといわれています。また、聖徳太子に優れた才能を見いだされた遣隋使の小野妹子が帰国した場所でもあります。

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