マギ、東方三博士とは
キリスト教初期にマタイの福音書の下記の節よりマギ(東方三博士)の存在が信仰されるようになり、元々キリストの洗礼との結びつきが強かった1月6日の祝祭がマギに紐づくようになっていきます。
2:11にある「黄金、乳香、没薬」から贈り物を持った占星術の学者が3人とされるようになり、その後時代を経るに従って3人のマギ(東方三博士)のキャラクターも形成されていきます。
そして1月6日がマギの日としてキリストが公に現れ(顕れ)た事を祝う公現節としての風習が確立されていきました。(尚、正教や他分派においては別の日付で祝われます。スペイン語圏や正教では、1月6日に子供からお願いを聞くマギがプレゼントを渡すという風習もあります。)
マタイの福音書で触れられている2:2「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」の一節は、紀元前12年に飛来したハレー彗星がモデルになっているのではないかという説もあります。(木星と土星の接近とも)
マギ、東方三博士は実在した?
前述の通りマタイの福音書には三博士の人数も名前も明記がない為、キリスト生誕後の様々な状況記述が合体してマギ、東方三博士の話が形成されたと考えられています。
三博士は西方教会では、伝統的に下記の名前でそれぞれ年齢や贈り物、出身地などのキャラクターが描かれますが、地域や年代によって三人の描写や割り当ては多種多様な為、一例です。
美術に見る東方三博士
サンタアポリナーレ・ヌオーヴォ教会のモザイク
イタリア北部、一時西ローマ帝国の首都にもなった古都ラヴェンナ。6世紀頃のビザンチンモザイクの至宝が点在する街の一角にはマギ(東方三博士)を描いた聖堂の装飾がサンタアポリナーレ・ヌオーヴォ教会で見られます。聖母子に捧げものを献じるマギの上には名前も見えます。
パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂のジョット作品
ルネサンスの幕開けを飾る事になるジョットの壮大な作品群が見られるパドヴァ(イタリア)のスクロヴェーニ礼拝堂。1305年に完成したこの礼拝堂にもこのジョットの連作にもマギ(東方三博士)が登場します。後に伝統的な構図になる跪く姿が描かれ、ジョット自身が見たハレー彗星が東方三博士を導く星として描かれています。
フィレンツェ・ルネサンスの傑作、ボッティチェッリ作品
成熟したルネサンスを体現する事になる巨匠の一人ボッティチェッリの代表作の一つもマギ(東方三博士)の礼拝です。一番右下の黄色いローブを纏ってこちらを見つめる人物がボッティチェッリの自画像です。また、中央で聖母子に跪く博士のモデルはコジモ・ディ・メディチ、さらにジョヴァンニ、ピエロ、ロレンツォらメディチ家の人々が登場する作品として当時から話題を呼んだ作品です。
マギ、東方三博士の聖遺物や痕跡
ケルンの大聖堂(ドイツ)
マギの遺骨は、コンスタンティノープルのヘレナが聖十字架と共に回収し、コンスタンティノープルに持ち帰ったという伝説があります。その後6世紀頃に聖遺物はミラノに移され、さらに12世紀に入ると神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ一世によってケルンの大聖堂に移され、以後今日まで大切に守られ続けています。その聖遺物が収められた黄金の箱は現在でも拝む事が出来ます。学術調査で内部には青年、壮年、老年の3人の遺骨がある事が分かっています。
アクスム(エチオピア)
バルタザールの出身地として候補に上がることが多いエチオピア。ちょうどキリスト生誕時にエチオピア北部のアクスム王国を治めていたのがバゼン王と呼ばれる王です。このバゼン王がパレスチナまで足を延ばしてキリストの生誕を確認し、その事をエチオピアに持ち帰ってエチオピア正教の基礎を築いた伝説があり、バゼン王が後にバルタザールと呼ばれるようになったとも言われています。バゼン王の痕跡はあまりないものの、アクスム王国の遺構は現在でも残されています。