ソグド人とは
ソグド人は、現在の中央アジア(ウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン、キルギス)に位置していたソグディアナを本拠にしていた農耕民族。紀元前6世紀頃から歴史の舞台に登場し、紀元前4世紀頃には南側に出現した大帝国であるアケメネス朝ペルシャの影響下に置かれるようになりました。その後アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王)とその流れを汲むセレウコス朝、クシャン朝、ササン朝ペルシャ等の大国の版図に組み込まれながらも一定の自治を維持し続けました。
そしてそのソグド人がシルクロード(東西交易)の黎明期から約1500年に渡り交易を主導した交易の民です。大きな政治力や軍事力もなかったソグド人ですが、悪路を行く機動性に富み、多言語に通じ、商取引にも優れたプロの通商集団として、シルクロードという交易の道の確立に最も貢献した民族であると言っても過言ではないでしょう。
ソグド語はシルクロードの公用語とも言える重要な言語になり、通商がもたらず莫大な富で潤った紀元後3-6世紀頃がソグド人たちの絶頂期でした。
しかしながらソグド人とソグディアナの栄光の歴史も中世に入ると急速に衰退し、イスラム教勢力が中央アジアを支配するようになってからソグド人の姿は徐々に減り、やがて歴史の表舞台から姿を消していきました。
ソグディアナはどこ、位置と地図
ソグディアナはおおよそ上部地図の位置、現代のカザフスタン南部、ウズベキスタン東部、キルギス西部、そしてタジキスタンの大半を含んでいました。シルクロードの中継地として非常に重要な地域であり、このソグディアナを拠点にソグド人たちは東西に繰り出して交易に活躍しました。中心都市はサマルカンド(現ウズベキスタン)ではありましたが、ソグディアナの各都市は強固な政治力や軍事力は持たず、緩い繋がりを持った国というよりも連合に近い共同体でした。
ソグド人、ソグディアナの都市
サマルカンド(アフラシャブ)
紀元前6世紀頃、現在のウズベキスタン東部、川と肥沃な大地に挟まれた高台のある地に町が形成され、それがソグド人たちの中心都市サマルカンドの起源です。その後街は徐々に発展し、交易路の中継都市としても中央アジア随一の地位を占めるようになり、紀元前4世紀アレクサンドロス(大王)の東方遠征においても中央アジアの平定時にアレクサンドロス自身もサマルカンドを訪れています。ちなみにマケドニアとアジア人の結びつきを強化する目的もあったと言われるアレクサンドロスの現地婚相手であるロクサーヌもソグド人の血を引いています。
その後東に唐が起こってシルクロードのパワーバランスが東に傾いた時にもサマルカンドは依然その重要性を維持し続けましたが、13世紀初頭にチンギスハンのモンゴル軍に抵抗して街は徹底的に破壊されてしまいました。現在のサマルカンドの街は、その後にティムールが古代の街の南側に再建した『青の都サマルカンド』です。
古代サマルカンドがあった高台はアフラシャブの丘と呼ばれており、古代の街の遺構をそのまま残しています。モンゴル軍の破壊が徹底していた為にソグド人の都市の名残はほとんどありませんが、出土品の中には見事な壁画も発見されており、アフラシャブの博物館で見学する事ができます。
ペンジケント遺跡
現タジキスタン西部、ザラフシャン川の南岸に佇むペンジケントは、紀元前から栄えていたサマルカンドと比べて後進であるものの、特に紀元後5-7世紀頃には富裕な商人達が居住し、ソグディアナの中心都市のひとつとして大きく発展しました。特に富裕層の邸宅には、ソグド人の交易や主のビジネス、生活等を描いた壁画で装飾されました。青い顔料の生成にはラピスラズリが必要であった為当時は非常に貴重でしたが、その青を背景にふんだんに使った壁画は、ソグド人が大きな財を成していたことを物語っています。
隆盛を誇ったペンジケントですが、8世紀に入って中央アジアに勢力を伸ばしたイスラム勢力によって破壊され、人々は隣の新しいペンジケントの街に人々は移り住み、旧ペンジケントもソグディアナもやがて歴史の中に埋もれていきました。
ルダーキ記念・歴史郷土博物館
現在のペンジケントの街にあるルダーキ記念・歴史郷土博物館には、ペンジケント遺跡出土の貴重な展示品が見学できます。壁画の多くは首都ドゥシャンベの博物館、サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に移されていますが、この博物館には生活用品、装飾品類の展示が充実しています。また、世界遺産にも登録されている近郊の新石器時代遺跡サラズムの出土品も充実しています。
ホジャンド
現在のタジキスタン北部に位置し、今も活気あふれるタジキスタン第二の都市ホジャンド。この街の歴史は紀元前5世紀頃までさかのぼる事ができ、ソグディアナの中でもサマルカンドに勝るとも劣らない古い都市です。アレクサンドロスの東方遠征時には、ギリシャ人が入植し、街の名前はアレクサンドリア・エスカテ(最果てのアレクサンドリア)に変えられました。シルクロードの中継都市としてソグディアナでも最重要都市の一つであり続けましたが、8世紀にアラブ勢力の襲来により、ソグドの街としての歴史に終止符を打ちます。
古代から中世、そして近代まで街の防衛施設として機能してきた城塞は、現在ソグド地域歴史博物館として、ソグディアナ時代の出土品を展示し、当時の模様を今日に伝え続けています。現代の制作であるものの、その歴史物語を辿る事が出来るアレクサンドロスの東方遠征の模様を描いたモザイクの連作も必見です。
ソグド人の足跡を追って
ドゥシャンベの国立タジキスタン古代遺産博物館、国立博物館(タジキスタン)
現代タジキスタンの首都ドゥシャンベにもソグド人やソグディアナに関連した発掘物を見学する事ができます。
エルミタージュ美術館(ロシア)
ソグディアナがあった中央アジアは20世紀後半ソ連の版図に編入され、その間の考古学的発掘物で特に重要なものは、サンクトペテルブルグにあるエルミタージュ美術館に送られました。ペルシャの叙事詩『シャー・ナーメ』に描かれた英雄ロスタムを描いた壁画はペンジケントの大邸宅「青の間」から発見されたソグド美術の傑作です。他にも多数のソグド人にまつわる展示が並びます。
ベゼクリク千仏洞(中国)
タクラマカン南西部、ホータン近郊に位置するベゼクリク千仏洞。仏教美術の優れた壁画が数多く発見された中で、特に第9屈で発見された壁画にはソグド人とされる商人の姿がはっきり描かれており、シルクロードにおけるソグド人の重要性を明確に示しています。尚、インド北部からアフガニスタンを経て中国(さらにその先の日本)まで仏教東漸の主導的役割を担ったのもソグド人と言われています。残念ながら壁画はベルリンで第二次世界大戦の戦火により消失してしまいましたが、唐とも密接な関係を保っていたソグド商人達は壁画だけではなく、実際にこの地も幾度となく行き交った事でしょう。
ペルセポリス遺跡(イラン)
ソグディアナが成立する頃、中央アジアを含む大勢力圏を築いたのがアケメネス朝ペルシャ帝国です。ソグド人たちもペルシャに従属し、その庇護の元で通商を行っていました。アケメネス朝ペルシャの都ペルセポリスには、ダレイオスに朝貢するソグド人達のレリーフも残っています。